専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
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7月25日(月)
今年の5月21日に植えた向日葵。
20粒ほど植えると、次々と芽が出て成長を楽しみにしていたのだけれど。。。
芽が出て少し成長したところを次々と摘み取られたみたいで、残ったのはわずかに一本だけ。。。
何度も「抜かないで」「さわらないで」と伝えたにもかかわらず。。。
とにかくこの一本だけは大切に。
この一本はススキの影に隠れているので、目立たない。
バッタに葉っぱを食べられながらも元気に育ち、昨日見た時、
黄色い花びらが。
そして、明け方降った雨が上がった後見に行くと、小さな可愛らしい向日葵が一輪。
〈パチーノ・ゴールド〉という品種で、30㎝から40㎝くらいの小さな向日葵。
花の隣にもつぼみが大きくなっているので、もう一つ咲くのかな。
ウクライナもロシアも向日葵が国花。
〈世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ〉の願いを込めて。
午後から総代会。
暑い中、ありがとうございました。
7月21日(木)
昨日は午後久しぶりに広島別院でサンガ部会の会議に出席。
帰って、夕方境内の水撒きをいつものようにしていると、何やら頭上で羽音。
先日から時折姿を見かけてはいたので、ひょっとしてと思い、そぉっと物陰に隠れて見ていると、どうやらキジバトが巣をかけたよう。
昨年ヒマラヤスギの同じ巣で、3度の抱卵を見守ったけど、残念ながら3度とも雛は孵らず。
恐らくそのキジバトが帰ってきて、今度選んだ巣の場所は、
何と!!
ソテツ。
昔、『ファインディング・ニモ』で、イソギンチャクとクマノミの関係を知ったけど、ソテツとキジバト。
ここだと何にも襲われることもなさそうだけど、何ともチクチク。
キジバトは朝と夕方、雄と雌が托卵を交代するそうで、ちょうど水撒きの時間帯と重なるみたい。
今日も夕方、そろそろ交代する時間かなと思ってビデオを構えていると、すぐに近くの石灯籠の上に。
すると、巣にいた一羽が飛び立ち、周りの様子を見ながら石灯籠から巣の中に。
無事孵ることをそおっと遠くから見守るのみ。
7月19日(火)
九州から関東にかけて線状降水帯が発生し、各地で浸水等の被害が出ているそう。
広島では一部大雨警報が出ているところもあるけれど、呉市は大雨注意報。
ただ、このあたりはそれほどひどい雨が降ることもなく、過ぎた模様。
朝、案頭春は夜中の雨できれいに散っていた。
今日の中国新聞朝刊、呉・東広島版に先日の坂田明さんの記事。
そして、今日届いた本願寺新報7月20日号に、
沖縄戦 広島の人へ
広島・住蓮寺門徒の渡辺敞子さん(80)は、「沖縄で戦死した父の軌跡をたどりながら、次の世代の若者と平和を「学び続けたい」と、2010年から毎年、広島の学生たちに交じり、沖縄戦跡約60㌔を2泊3日の日程で歩く活動に参加し続けている。
「父が戦死したのは私が3歳の時。父の声も、肌のぬくもりも、記憶には何一つ残っていない。父を知るよすがは、学生時代の写真数枚と、召集後に伯母に送った軍事郵便はがきだけ」。渡辺さんの父・石田儀郎さんは1918年生まれ。京都高等工芸学校窯業科を卒業し、満州(中国東北部)に渡り、大連の耐火レンガ工場で働いていた。妻の重子さんと渡辺さん、2歳下の妹・幸子さんの4人家族だったが、44年3月に陸軍歩兵第八九連隊の兵隊として臨時召集された。
同連隊は船で山口・下関、福岡・門司を経由し、8月に沖縄・那覇に到着。米軍の攻撃を受けて徐々に南下し、翌年5月末には日本軍最後の防衛戦となった沖縄本島南部の八重瀬岳で他の部隊と合流した。儀郎さんの連隊はそこで玉砕した。先の大戦で唯一の地上戦となり、200万人以上もの命が犠牲となった沖縄戦は6月23日、組織的戦闘が終結した。
満州に残った渡辺さんたち家族3人は親族が迎えにきて45年6月14日に呉市に戻った。だが、くしくもその日、儀郎さんは沖縄で戦死した。後日、届けられた遺骨箱に骨は入っていなかった。渡辺さんは「いまだに父の遺骨は見つかっていない」と語る。
軍事郵便はがきは、儀郎さんが姉宛に書いたもの。「男子の本懐之に過ぎるものはありません。重子達の事は石田(父)に御願致します」など、短い文章の奥に家族を心配する様子がうかがえる。渡辺さんは「私たちに会いたかっただろうし、呉に帰りたかったと思う」と語る。
戦後、進駐軍で働きながら家族を支えてきた母は、父のことは語らなかったという。小学校の教員となった渡辺さんは、平和の尊さを子どもたちに伝えなければいけないと、呉市ではそれまで登校日でなかった原爆の日(8月6日)を登校日にするなど、平和教育に尽力してきた。
退職後の2005年6月23日、初めて沖縄県糸満市の「ひろしまの塔」で営まれた広島県出身戦没者の追悼法要に参拝し、そこで「陸軍兵籍簿」の存在を知った。広島に戻った後、兵籍簿で父の沖縄での詳しい足取りを調べた。
「父の歩いた道をたどりたい」と思っていた矢先、広島経済大学の岡本貞雄教授ゼミが行う沖縄戦跡を歩く研修ツアーの紹介記事を見て、岡本教授に連絡。 2010年からツアーに参加し始めた。
毎年2泊3日の日程で、約60㌔の行程を学生と一緒に歩く。かつて戦場だった沖縄の各地を回り、慰霊碑や壕などの現場を清掃し、手を合わせ、戦争体験者の話を聞いた。疑似体験のため、食事は乾パンに見立てたカロリーメイトと、スポーツドリンク、水だけ。
渡辺さんは「道の下にはいまだに多くの遺骨が埋まったままかもしれないと聞かされ、父の遺骨もあるのではと思った。原爆とは異なる戦争の凄惨な一面を突きつけられ、戦争はまだ終わっていないと実感した」。
父の終焉の地、八重瀬岳を訪ねた時だった。病院壕で従軍看護師を務めた白梅学徒隊の一員、中山きくさんが野戦病院の実態を語ってくれた。「弾雨の銃撃戦の中、亡くなったであろう父を思うと心が痛んだ」。
その中山さんが、広島で被爆者の体験談を聞いたことがきっかけとなり、「亡くなった仲間のためにも沖縄戦を風化させてはならない」と自身のつらい体験談を語る活動を始めたことを知った。
渡辺さんは「中山さんは『広島も原爆が投下され、大変な思いをされたでしょう』と初対面の私を妹のように迎えてくださった。多くの民間人が犠牲となった沖縄戦について広島ではあまり知られていない。広島の人が中山さんと同じように、沖縄の人に声をかけられるだろうか。毎年活動に参加して沖縄戦を学び、広島で沖縄戦について伝えていかねば」と語る。近年、修学旅行で沖縄を訪ねる広島の生徒に事前学習として沖縄戦を語る機会が増えたという。「みんな、かけがえのないいのちを生きさせていただいている。戦争がもたらすあらゆる痛みを共有し、自他共にいのちを大切にしなければ本当の平和は築けないと思う」と強く訴えた。
今朝の『ちむどんどん』を思い起こしながら。。。
忘れないように。
でも、忘れてしまうかも知れないので、ここに刻む。
7月15日(金)
今朝、予想どおり案頭春が一つ開花。
10時頃にはだんだんと閉じ始め、
お昼には完全に閉じてしまう。
3年続けて開花した案頭春。
小ぶりだけど、きれいな蓮。
午後から第1回校区内補導及び防犯連絡協議会 兼長浜駐在所連絡協議会に出席するため、広南小学校・中学校に。
連絡協議会には、校区内(広津久茂・広長浜・広小坪)の各自治会長、民生委員、保護司、中学校評議員、老人クラブ会長、女性会会長、PTA会長・副会長、そして駐在さん等、たくさんの方が参加。
協議会の前に各クラスの授業参観。
コロナ禍で授業参観される方が減って、ある時は私1人??ってこともあったけど、今日はいろいろな方が。
来週からいよいよ夏休み。
子どもたちを地域で守るため、いろいろと話を聞かせていただいた。
連日、〈地域とともに〉。
7月14日(木)
今朝のNHKニュース『おはよう日本』の広島放送で、昨日開かれた広南小学校・広南中学校の「ようこそ先輩」の模様が放送された。
見逃した方はこちら→(https://www3.nhk.or.jp/hiroshima-news/20220714/4000018492.html)
その先輩とは、長浜出身のサックス奏者 坂田明さん。
ただ、昨日はちょうど同じ時間に「市政だより」の取材。
現在文化庁で取り組んでいる〈地域総がかりでつくる 文化財保存活用地域計画〉。
その地域ぐるみの取り組みのモデルとして、石泉文庫と地域の関わりを紹介する予定だそう。
長浜は虫干しだけでなく、蚊やハエのいない町づくり、そして防災と、昔から地域総がかり。
取材が終わり、急いで中学校に向かい、体育館の入り口を入ったところで最後の一曲。
入り口で涼しい風を受けながら、映画『ひまわり』の曲が心に響く。
インタビューの中で仰られているように、
子どもたちにはジャンルにかかわらず、自分のやりたいことに取り組んでもらい、のびのびと成長してほしい。
地域総がかりで子どもたちがのびのびと成長していく姿を少しでも後押しできたら。
今朝、案頭春のつぼみが少し開いた。
明日の朝、開くかな。