石泉僧叡和上


 石泉僧叡(せきせんそうえい)和上は、江戸時代にこの長浜の地で「石泉塾」を開き、たくさんのお弟子を養成されました。その和上の学説、その流れを汲む一派を後に「石泉学派」と呼び、浄土真宗本願寺派では、「空華(くうげ)学派」と並んで「二大潮流」と呼ばれるほどです。

 その僧叡和上は、宝暦12年(1762)、山県郡戸河内村真教寺円諦の子としてこの世に生をうけました。

 そして、3歳年上のいとこに当たる大瀛(だいえい)和上《後に三業惑乱という本願寺史上、類を見ない大騒動で活躍された方》と一緒に、深諦院慧雲(じんたいいんえうん)和上の門に入って、浄土真宗の教えを学ばれました。年少にして聡明博学だった僧叡和上に、慧雲和上もその鋭敏さを賞して鷹城(ようじょう)の号を与えられたそうです。

 また、大瀛和上と学林に懸席し、天台の教えなども学ばれました。 

 後に高田郡専教寺に住職として入寺しましたが、学問に没頭し、常に講演に望んでは寺の法務がおろそかになることから、門徒との折り合いが悪くなり、寺を出ることになりました。

 その後、江田島・能美島の諸寺に逗留しながら説教を続けられ、たくさんの御同行が和上を慕って聞法を続けておりました。

 後に川尻光明寺へ入寺し、その後に長浜に来られたように伝えられておりますが、当山の資料によると、それ以前から長浜に来ておられるようです。

 石泉文庫を管理していた大洲道妙氏の覚書によりますと、
・・・中村徳正寺に居すること数年、将に故郷へ帰らんと欲す。音戸法泉寺聞て、予が曾祖に使を以告て云り、山県の僧叡師故郷に帰らんと聞く。貴寺豊富たり御法義潤沢す。迎えては如何と、曾祖深諦其子常導に命じて、直ちに中村徳正寺に至らせ、迎へ帰り同居す。
 居する数月、宇都宮三右衛門氏一族数家、並に田中氏と財を投じ棲居を送り報ず。現在の居宅是れなり。三帖和讃の講我曾祖の請に応じて講じたまふ。
 後年川尻村光明寺に入寺す。然れども徒弟の引立等閑にせず、門徒の葬儀等自ら赴かず。之れによりて門徒の言辞あれども氏省みず、住職離縁状を真教寺に送る。叡師速かに去りて旧居長浜の棲居に帰る。

とあります。

 最初は名田(当時の呼び名は灘)の説教所に寓居し、既にお弟子が勉学に励んでいたようです。その中の一人、栗谷の専徳寺慧満の石碑が、現在の名田説教所に残っています。 

石泉塾誕生

 川尻光明寺へ住職として婿入りしたものの、3年後に寺を出てから長浜へ居をかまえ、庄屋多賀谷千兵衛氏が棲居の隣地および経蔵を寄贈し、瀬戸島・能美島・江田島等の御同行から一切経を贈られて、石泉塾が開始しました。

  その屋敷内に井戸を掘りかけたところ、大きな岩に突き当たり、当惑していた時、岩の下からきれいな水が湧き出してきたことから、この庵を「石泉」と呼び、それ以後僧叡和上も「石泉」の号を用いるようになったと伝えられています。


 それ以来、24年、安芸の国はもとより、四国・九州・大阪など遠近より次々とお弟子が入門して、真宗の教えを学ばれました。名簿には110名が記されていますが、その中から後に5名も勧学(本願寺の宗学最高の位)が輩出されております。 石泉僧叡和上のお墓
石泉文庫に隣接する
僧叡和上のお墓
専徳寺蔵 僧叡和上自筆の六曲屏風 『楽遊園歌』
楽 遊 園 歌



 僧叡和上の著述は、明治年間に是山恵覚和上の光宣寮より刊行されました。国立国会図書館ホームページの近代デジタルライブラリーで御覧いただけます。
検索キーワードに「光宣寮」か、「僧叡」と入力してみてください。
柴門玄話・玄義分義疏・定善義義疏・往生要集偏帰箋・選択集義疏・愚禿鈔義記・三帖和讃観海篇・正信念仏偈要訣の8部が御覧いただけます。)