天文23年(1533)、予州(現在の愛媛県)大洲の地蔵嶽城(大洲城)の城主、宇都宮遠江守豊綱の三男坊俊綱が、訳あって壮年で隠遁。ここ長浜に渡って来て剃髪し、僧侶となりました。そして、一鑑坊と名乗り、専徳院の後住となりました。 時はちょうど戦国時代。 予州宇都宮家は衰え、その一族は次々とこの長浜の地に移ってきたものと伝えられています。この長浜に移り住んだ人たちは、それぞれ「○兼屋 宇都宮」と名のって、新しい生活に入ってゆきました。この当時は数えるほどの人家しかなったといわれております。 ちなみに、現在の大洲市の海岸には長浜町があり、瀬戸内を股にかけての軍船の出入りもその港で行われていたようです。おそらく、ここ長浜の地名は、その頃につけられ、「大洲」の姓もここからつけられたのではないでしょうか。 |
宇都宮氏は、古くは宇都宮(現在の栃木県宇都宮市)に住んでいた守護職でありましたが、鎌倉時代に初代豊房が伊予国の守護職に任ぜられて入国。領内の大津地獄嶽に城を築きました。
8代豊綱の時代に戦国時代を迎え、中予の河野氏・土佐の長宗我部氏に、安芸の毛利氏・備後の小早川氏などが入り乱れ、遂に豊綱は城を終われて三原に逃れ、病死したとのことです。
その前後に一族も離散し、その一部が長浜に移ってきたのであります。
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