専徳寺の歴史


 第19世を継職した義淳は、43年間こつこつと御法義伝道に勤めてゆきました。その人柄は生駄密蔵氏の法話集『猫と念仏』のなかに次のように紹介されております。


 義兄は広島県呉市長浜の専徳寺の住職を長い間つとめて、心臓障害でなくなりましたが、あの辺は全国有数の真宗王国で法義のゆきとどいた地方ですから、その寺も、法座の数も多く、教化組織も完備していますが、義兄はすべて諸因縁によって出来るものだとして、熱心な幹部門徒の協力をよろこんでいて、自分のやっている事業だとか、自分が教化しているという気持ちはまるきり無いようでした。義兄の口から教化をする。導くという言葉は聞いたことがありません。講師を招聘して法座を開いても、先ず自分が聴聞することを第一とし、人々に集まってもらって「声明」を教えても、みんなで正しいお経の読み方をして、ともに讃嘆することを目標にして、自分が教化する、導くとは言いませんでした。
 「わしは法話をするといっても、こっちの思うことを言うだけで、ときには美術のはなしになったり、音楽のことを言うたりするもんだから、聞いてる人が呆れてることがある」
と聞いたことがありますが、構えた気持ちの全然ない、水の流れの様な自然な生き方が、そのままにじみ出た話し振りだったでしょう。
 画を描いたり、彫刻をしてみたり、写真に凝ったり、巾の広い豊かな定識を持った人ですから、聞く人にはさだめし楽しい法話だったでしょう。そして、表裏のない素直で温かい心情が、人々の心を打ったことでしょう。・・・・・・
 ・・・・・義兄の葬いの日は、長浜町全体が喪に服している感じでした。
 寺の境内は言うまでもなく、葬列の行く道すじには、両側に幾百という人が居並び、「ごいんげさん」の死を悲しみ、別れを惜しんで見送りました。長浜全戸が仕事を休み、家事をほって会葬している様でした。
 
 (昭和28年に梵鐘再鋳。くわしくはこちらに。)


 そして、昭和41年、第20世を継職したのが現住職、曠昭です。
 昭和59年に明治に再建されて以来、第2次世界大戦や台風などによって痛んできた伽藍の修復、《昭和の大修復》をおえ、今日に至っています。


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