長浜の妙好人
想四郎と想吉


妙好人(みょうこうにん)みょうこうにん」とは、もともと『観無量寿経』という経典を註釈した善導大師の『観経疏』の中に出てくる言葉です。

そこには、
「それ念仏の者は、すなわちこれ人中の好人なり。人中の妙好人なり。人中の上々人なり。人中の希有人なり。人中の最勝人なり。」
と、念仏者をすぐれた妙好華(白蓮華)に例えてたたえています。

そして、江戸時代の末期に石見の仰誓(ごうぜい)ごうぜいという方が、『妙好人伝』という書物を著しました。

その『妙好人伝』には157人の念仏者の生きざまが記されていますが、それ以来念仏一筋に生き抜いた人たちのことを「妙好人」と呼ぶようになりました。

妙好人として有名な方には、温泉津(ゆのつ)ゆのつの浅原才市同行、三河のおその同行、大和の清九郎同行、六連島(むつれじま)むつれじまのお軽同行・・・とおられますが、この長浜にも、その『妙好人伝』に記されている兄弟がおりました。(二篇上巻)

それが想四郎・想吉兄弟です。

それでは、その話を呉弁でどうぞ。      (→原文はこちら


元禄3年。

長浜に九右衛門ゆう真宗に熱心なんがおったんじゃと。
ほんで、その子どもに想四郎想吉ゆう兄弟がおった。
二人は商いをしちょった。

8月15日、二人は舟に乗って宇和島に渡り、そこで魚を買い占め、それをこんどは上方(関西)で売りさばこう思うて、舟に積んでそっちに向かっちょった。

ほしたら、途中で海が荒れてきてのぉ、船がめげそうになったんじゃ。

二人が死にそうな思いをしちょるなかで、兄の想四郎が弟の想吉に、

「想吉。
このしけじゃぁ、わしらぁもう助からんかも知れんのぅ。死んでしもうたら親不孝もんじゃけぇ、金毘羅さんにでもお祈りしてみるかぁ?」

「あんちゃん、何ゆうとるんじゃ!
阿弥陀さん信じとるんは、わしらの現世利益願うためじゃなかろうがぁ。
阿弥陀さん信じたらみな浄土へ生まれさしてもらえるんじゃぁ。そしたら、親も子も兄弟もみなそこでまた会うことができるじゃなぁか。神さん祈って死んでバラバラになるほうが親不孝もんじゃぁ!
それにのぉ、神さま祈るんは、わしらのすることじゃなぁ!」

「おー!わしもそう思うちょるがのぉ、われがどしても助かりたい思うちょったら可哀想なけぇ、ゆうてみたんよぉ。
われがそがぁに思うちょるんが分かってのぉ、わしも安心したわいやぁ。」

「このまま死んでも、わしらぁお浄土に往生させてもらえるんじゃけぇ、ありがたぁことよのぉ。・・・何にも心配いらんわい。」

「ほおじゃ、ほおじゃ。
ほじゃけどのぉ、死体も見つからんようなってしもうたら、親も悲しむじゃろうのぉ。」
それで、二人はからだを帆にしばりつけて、念仏となえながら海の中を漂っていったんじゃと。



ちょうどその頃、伊予の輿居島(ここじま)ゆうところの神主さんに、神さんからのお告げがあったんじゃと。
「神さまからのお告げで、この沖に遭難者がおる。すぐに助け舟を出してもらいたい。」
これを聞いた輿居島の島民は、荒れ狂う伊予灘に向かって船を出していった。そして、まもなく気を失って流されとった二人は助けられた。

そしたら、長浜でも神主さんに同じように明神さまからのお告げがあったんじゃと。
で、船で輿居島に二人を迎えにいった。

二人の話を聞いた人らは、その話に感動して、神主さんも含めてみんな浄土真宗に帰依したんじゃと。

『妙好人伝』には、このあと明神(現在の入江神社)の祭で『阿弥陀経』を読誦するようになったということが記されていますが、現在は行われていません。
ただ、この話を機縁として、3艘の舟を仕立てて神輿をのせ、化粧した若者を舟のへさきにくくりつけ、必ず一度は船首を二人が遭難した輿居島の方に向けるという行事は最近まで行われていたようです。
『妙好人伝』想四郎と想吉の原文はここ