専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
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5月11日(月)
今朝は広南小学校読み聞かせ。
担当は2年生。
今週末は運動会ということで、読んだ絵本は、
『イソップねずみのイソップものがたり うさぎとかめ』(しもがわらゆみ)
今日は前に一つ椅子が置かれ、みんなその前に体育座り。
とっても絵が素敵なので、絵もじっくり見てもらいながら、初めて椅子に座っての読み聞かせ。
イソップ物語の有名な『うさぎとかめ』。
この話はみんな知っている。
ただ、その話を聞いているねずみの話が少し加わって、ほのぼのと。
すぐに読み終わってしまうので、もう1冊。
『イソップねずみのイソップものがたり ライオンとねずみ』 (しもがわらゆみ)
こちらはだれも知らなかったみたいで、こちらの感想が多かった。
運動会、応援には行けそうにないけれど、楽しんで。

5月8日(金)
ゴールデンウィークは終わり、平常に。
今朝は9時から仏教壮年会による境内清掃。
先日の雨のあと、草がどんどん生い茂って。
それらを刈っていただく。
ありがとうございました。
そして、夜は仏教壮年会例会。
このたびから新しく法語カレンダーをことばを紐解いて。
5月の法語は
「信じるということは、聞くよりほかはない」
『桐溪順忍和上最期の法話』より。
その「聞く」に関連して、今朝の朝日新聞の折々のことばも紹介。
『僕には鳥の言葉がわかる』の鈴木俊貴さんのことば。
「自然から人間だけが切り離されてしまっている」。
今日の折々のことばの元となったのが、朝日新聞4月19日のフロントランナー。
何故読んでなかったのだろうと思ったら、その日は花まつりコンサートで、新聞を読む時間もなかったな。
昔は鳥の声だけでなく、自然のあらゆるものから、〈声〉のみならず、いろんなものを聞いた。
旧暦の二十四節気、七十二候はまさにそう。
ウグイスが鳴き始めると、春が近いと感じる。
桜が咲くと、春を感じ、カキツバタや菖蒲が咲くと初夏を感じる。
経験あっての意味
―――人間の言葉について思うことは?
言葉はとても便利なツールですが、結構あいまいなところもあるのではないでしょうか。
例えば「おふくろの味」といっても、みんな違う味を想像するわけで。違う家庭料理を食べて育ったのだから当たり前なんですが。僕らは自分の経験を当てはめて、言葉の意味を想像しますよね。逆にいうと、経験がなければ言葉は意味をなさないただの音になってしまう。いくら「陸や海の豊かさを守りましょう」と言っても、それを知らない人には響かないのでは。
現在、人間活動の影響で、数多くの生物が絶滅の危機に瀕しています。今後、自然環境と共生していくためには、言葉で目標を立てるだけでなく、一人ひとりが体験を通してその豊かさに気づくことが何より大切だと思うのです。身近な鳥の言葉がわかるようになれば、自然に目を向ける人も増えるはず。結果として自然に対しても、他者に対しても、やさしくなれるのではないかと思っています。
便利な世の中になって、経験することが減り、ただの音になってしまっているのかな。
「信じるということは、聞くよりほかはない」
ようこそのお参りでした。
5月4日(月)
昨日の雨が上がり、青空は広がるものの風の強い一日となった。
今年は鹿児島開教150周年の節目にあたり、10月には記念法要が予定されているという。
専徳寺17世住職・大洲順道が鹿児島出張所長として赴任したことは以前から聞き及んでいたが、その詳細は分からなかった。
最近では国立国会図書館のデジタルコレクションで過去の資料を容易に閲覧できるため、「もしや」と思い調べてみたところ、『鹿児島別院五十年史』および『鹿児島別院百年史』を見つけることができた。
しかし、読み進めるうちに拭えない違和感を覚えた。
そこでAI(Gemini)に2冊の記述の違いを尋ねてみたところ、以下のような回答を得た。
1. 記述のスタイルと視点の違い
五十年史(当事者の記録):
事実の羅列と追想: 建築の経緯を公的な記録として淡々と記す前半と、当時の所長・菅了法による「私記(追想記)」の二段構成です。
主観的な熱量: 菅了法の文章は「余は〜」という一人称で書かれており、周囲の反対を押し切って断行した自負や、島津家との交流といった「現場の熱気」が直接伝わる内容になっています。
百年史(歴史家による再構成):
客観的な分析: 後世の編纂委員会が、五十年史などの資料を元に、なぜ工事が遅れたのか、なぜ予算が増大したのかを「歴史的背景」を含めて冷静に分析しています。
推察と批判: 記述の漏れに対して「千慮の一失か」と指摘したり、当時の住職たちの心理状況を「我が寺の経営が優先されたのではないか」と推察したりするなど、批評的な視点が加わっています。
2. 建築の「頓挫」に対する解釈の違い
ここが最も大きな違いです。
五十年史:
工事が一時中断した理由を、主に「当初の計画の齟齬(予算不足)」と「寄附金の未納」という実務面から説明しています。
百年史:
「心理的要因」の指摘: 禁制が解けて二十年が経ち、門徒や地方寺院の住職に「慣れ」や「自坊優先の意識」が芽生えていたのではないかという、より踏み込んだ人間心理からの考察を行っています。
戦略の再評価: 菅了法が予算を倍増(7万→13万)させたことを、単なる無謀ではなく「根本道場としての威容を示すことで、逆に門徒の信頼と寄附を引き出す」という逆転の発想、一種の広報戦略として高く評価しています。
3. 情報の補足と欠落への言及
詳細な追加情報(百年史の特徴):
五十年史にはない、明治19年の大洲順道の赴任時の状況や、明治21年の総会所新築などの「前史」が補われています。
明治34年の明如門主による「御消息(メッセージ)」と「寿像」の下賜について詳しく触れ、門主がいかに鹿児島を気に掛けていたかという宗教的意義を強調しています。
この比較を見て感じた「違和感」の正体は、順道が所長を務めていた時期の公式な手記がなく、次代の菅了法による回顧録が記述の中心となっている点だ。
その構成ゆえに、ともすれば「順道が本堂再建に失敗し、菅了法が見事に完成させた」かのような印象を与えかねない内容になっている。
また、『百年史』には『五十年史』に欠けていた順道赴任時の状況が補足されているのだが、その記述には不可解な点がある。
明治十九年十月、大洲順道が出張所長として赴任する。大洲に課せられた最初の仕事は、十七年の暴風雨により半壊した本堂、書院、台所と、全壊の鐘楼の復旧であったはずである。
しかし、その復旧工事についての資料は、全く見当らない。半壊と記している資料が大げさであったのか、或は、新しい本堂を建設するために、大洲が、敢えて壊れたままにしておいたのであろうか。ともあれ、大洲順道が鹿児島へきたったのは、父鉄然との関係も考えあわせると、別院の再建のためであったろうことは、想像に難くない。先述のように、別院の施設は手狭になっていたのだから――。
このように、資料の不在を認めた上で「大洲鉄然の子であるから、再建のために赴任したのだろう」という、ほぼ推測に基づいた論調で始まっているのである。
大洲順道について、国会図書館所蔵の『廣系圖集』(昭和4年発行)を紐解くと、興味深い記述があった。
司教 大洲順道
師は豊田郡竹仁村藤川逸平の長男にして、若年より出塵の志深く、遂に十七歳の時長圓寺にて剃髪す。本郷司教雲蓋の門に入り宗意を得たり。(萬延元年三月師化)師の歿後備後福間浄觀に師事し、後豊前善譲勧學に依りて宗學を専修し。歸郷したれば豊田郡諸寺の選舉に當選し、歐學研究の目的にて明治元年(歳二十六)先づ京都に上り、針水勧學に師事す。二年長崎に下り、還俗して耶蘇教徒となり、専心に英語地理等を学び、海外の状勢を察し、遂に國事に奔走するの信念切にして、四年四月東上し、三條公の知る所となり、教部省に出勤す。爾來島地赤松等に會ふ毎に、宗教の改良を力説せり。九年四月教部省出仕に進みしが、翌年一月廢省せらる。三條公の薦選ありしが、本願寺法主猊下の命を奉じ歸山して僧形に復す。泰嚴勧學の勧めにより翌十年九月長濱専徳寺に住職せり。爾來長濱居民の風教改良に努力し、自ら指導教化に竭し、聞名講等を起し、宗風を刷新し、徳化を庶民に蒙らしめたり。十九年八月鹿児島出張所長に任ぜられ、十ヶ年間一意専心に地方の布教に盡瘁せし效空しからず、堂宇を建立せり。三十二年執行に任ぜられ、四十二年易往院と院號を賜り、四十四年學階司教を授けらる。縣廰郡署等諸所の講演に出演する等席の暖まる暇なく遂に大正十一年二月十六日寂す。享年八十。智徳兼備の高僧と云ふを得べし(嘗ての日和上の編者に語られしまヽを記す)
ここでは「諜者・豊田道爾(道二)」としての活動には触れられていないものの、一時キリスト教徒となっていた事実は公然のものとして記されている。
また、これまで「なぜ専徳寺に入寺したのか」が謎であったが、石泉塾で学んだ泰嚴勧学の勧めであったことも判明した。
なお、順道と大洲鉄然は実際には親子関係にはない。
順道が鹿児島へ赴いたのは、その類まれな手腕を買われてのことか、あるいは扱いづらい存在としての左遷に近いものだったのだろうか。
「順道は再建に何もしていなかった」わけではないことも見えてきた。
『百年史』には、当初の計画では「台風被害を考慮し、丸みを帯びた『モッコ屋根(むくり屋根)』を予定していた」とある。
専徳寺の現在の本堂(むくり屋根)が建立されたのは明治22年。
順道が鹿児島へ赴いた明治19年の直後に着工していることを考えると、専徳寺の本堂は鹿児島別院再建のための「試作」だった可能性はないだろうか。
鹿児島特有の気候を案じた順道流の設計思想がそこにあったのかもしれない。
しかし結果として、菅了法によって「威厳を示す紫宸殿造りの高屋根」へと計画が変更され、現在の別院の形となった。
専徳寺には、薩摩焼の壺が遺されている。
順道が退任した一年後の明治29年、鹿児島教区の有志から「感謝」として贈られたものだ。
そこに描かれた別院の姿は、建て替え前の旧本堂か、あるいは完成予定の本堂か。
菅了法は後に還俗して衆議院議員となったが、順道は本願寺の「執行」という要職に就いている。
もし鹿児島での事業が単なる「失敗」であったなら、こうした登用はなかったはずだ。
もし、鹿児島別院が専徳寺のような「むくり屋根」で再建されていたら、どのような風景になっていただろう。
鹿児島別院の当時の建物は現存しないが、順道の想いを今に伝える専徳寺の本堂は、今も変わらずここに建っている。