専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
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5月4日(月)
昨日の雨が上がり、青空は広がるものの風の強い一日となった。
今年は鹿児島開教150周年の節目にあたり、10月には記念法要が予定されているという。
専徳寺17世住職・大洲順道が鹿児島出張所長として赴任したことは以前から聞き及んでいたが、その詳細は分からなかった。
最近では国立国会図書館のデジタルコレクションで過去の資料を容易に閲覧できるため、「もしや」と思い調べてみたところ、『鹿児島別院五十年史』および『鹿児島別院百年史』を見つけることができた。
しかし、読み進めるうちに拭えない違和感を覚えた。
そこでAI(Gemini)に2冊の記述の違いを尋ねてみたところ、以下のような回答を得た。
1. 記述のスタイルと視点の違い
五十年史(当事者の記録):
事実の羅列と追想: 建築の経緯を公的な記録として淡々と記す前半と、当時の所長・菅了法による「私記(追想記)」の二段構成です。
主観的な熱量: 菅了法の文章は「余は〜」という一人称で書かれており、周囲の反対を押し切って断行した自負や、島津家との交流といった「現場の熱気」が直接伝わる内容になっています。
百年史(歴史家による再構成):
客観的な分析: 後世の編纂委員会が、五十年史などの資料を元に、なぜ工事が遅れたのか、なぜ予算が増大したのかを「歴史的背景」を含めて冷静に分析しています。
推察と批判: 記述の漏れに対して「千慮の一失か」と指摘したり、当時の住職たちの心理状況を「我が寺の経営が優先されたのではないか」と推察したりするなど、批評的な視点が加わっています。
2. 建築の「頓挫」に対する解釈の違い
ここが最も大きな違いです。
五十年史:
工事が一時中断した理由を、主に「当初の計画の齟齬(予算不足)」と「寄附金の未納」という実務面から説明しています。
百年史:
「心理的要因」の指摘: 禁制が解けて二十年が経ち、門徒や地方寺院の住職に「慣れ」や「自坊優先の意識」が芽生えていたのではないかという、より踏み込んだ人間心理からの考察を行っています。
戦略の再評価: 菅了法が予算を倍増(7万→13万)させたことを、単なる無謀ではなく「根本道場としての威容を示すことで、逆に門徒の信頼と寄附を引き出す」という逆転の発想、一種の広報戦略として高く評価しています。
3. 情報の補足と欠落への言及
詳細な追加情報(百年史の特徴):
五十年史にはない、明治19年の大洲順道の赴任時の状況や、明治21年の総会所新築などの「前史」が補われています。
明治34年の明如門主による「御消息(メッセージ)」と「寿像」の下賜について詳しく触れ、門主がいかに鹿児島を気に掛けていたかという宗教的意義を強調しています。
この比較を見て感じた「違和感」の正体は、順道が所長を務めていた時期の公式な手記がなく、次代の菅了法による回顧録が記述の中心となっている点だ。
その構成ゆえに、ともすれば「順道が本堂再建に失敗し、菅了法が見事に完成させた」かのような印象を与えかねない内容になっている。
また、『百年史』には『五十年史』に欠けていた順道赴任時の状況が補足されているのだが、その記述には不可解な点がある。
明治十九年十月、大洲順道が出張所長として赴任する。大洲に課せられた最初の仕事は、十七年の暴風雨により半壊した本堂、書院、台所と、全壊の鐘楼の復旧であったはずである。
しかし、その復旧工事についての資料は、全く見当らない。半壊と記している資料が大げさであったのか、或は、新しい本堂を建設するために、大洲が、敢えて壊れたままにしておいたのであろうか。ともあれ、大洲順道が鹿児島へきたったのは、父鉄然との関係も考えあわせると、別院の再建のためであったろうことは、想像に難くない。先述のように、別院の施設は手狭になっていたのだから――。
このように、資料の不在を認めた上で「大洲鉄然の子であるから、再建のために赴任したのだろう」という、ほぼ推測に基づいた論調で始まっているのである。
大洲順道について、国会図書館所蔵の『廣系圖集』(昭和4年発行)を紐解くと、興味深い記述があった。
司教 大洲順道
師は豊田郡竹仁村藤川逸平の長男にして、若年より出塵の志深く、遂に十七歳の時長圓寺にて剃髪す。本郷司教雲蓋の門に入り宗意を得たり。(萬延元年三月師化)師の歿後備後福間浄觀に師事し、後豊前善譲勧學に依りて宗學を専修し。歸郷したれば豊田郡諸寺の選舉に當選し、歐學研究の目的にて明治元年(歳二十六)先づ京都に上り、針水勧學に師事す。二年長崎に下り、還俗して耶蘇教徒となり、専心に英語地理等を学び、海外の状勢を察し、遂に國事に奔走するの信念切にして、四年四月東上し、三條公の知る所となり、教部省に出勤す。爾來島地赤松等に會ふ毎に、宗教の改良を力説せり。九年四月教部省出仕に進みしが、翌年一月廢省せらる。三條公の薦選ありしが、本願寺法主猊下の命を奉じ歸山して僧形に復す。泰嚴勧學の勧めにより翌十年九月長濱専徳寺に住職せり。爾來長濱居民の風教改良に努力し、自ら指導教化に竭し、聞名講等を起し、宗風を刷新し、徳化を庶民に蒙らしめたり。十九年八月鹿児島出張所長に任ぜられ、十ヶ年間一意専心に地方の布教に盡瘁せし效空しからず、堂宇を建立せり。三十二年執行に任ぜられ、四十二年易往院と院號を賜り、四十四年學階司教を授けらる。縣廰郡署等諸所の講演に出演する等席の暖まる暇なく遂に大正十一年二月十六日寂す。享年八十。智徳兼備の高僧と云ふを得べし(嘗ての日和上の編者に語られしまヽを記す)
ここでは「諜者・豊田道爾(道二)」としての活動には触れられていないものの、一時キリスト教徒となっていた事実は公然のものとして記されている。
また、これまで「なぜ専徳寺に入寺したのか」が謎であったが、石泉塾で学んだ泰嚴勧学の勧めであったことも判明した。
なお、順道と大洲鉄然は実際には親子関係にはない。
順道が鹿児島へ赴いたのは、その類まれな手腕を買われてのことか、あるいは扱いづらい存在としての左遷に近いものだったのだろうか。
「順道は再建に何もしていなかった」わけではないことも見えてきた。
『百年史』には、当初の計画では「台風被害を考慮し、丸みを帯びた『モッコ屋根(むくり屋根)』を予定していた」とある。
専徳寺の現在の本堂(むくり屋根)が建立されたのは明治22年。
順道が鹿児島へ赴いた明治19年の直後に着工していることを考えると、専徳寺の本堂は鹿児島別院再建のための「試作」だった可能性はないだろうか。
鹿児島特有の気候を案じた順道流の設計思想がそこにあったのかもしれない。
しかし結果として、菅了法によって「威厳を示す紫宸殿造りの高屋根」へと計画が変更され、現在の別院の形となった。
専徳寺には、薩摩焼の壺が遺されている。
順道が退任した一年後の明治29年、鹿児島教区の有志から「感謝」として贈られたものだ。
そこに描かれた別院の姿は、建て替え前の旧本堂か、あるいは完成予定の本堂か。
菅了法は後に還俗して衆議院議員となったが、順道は本願寺の「執行」という要職に就いている。
もし鹿児島での事業が単なる「失敗」であったなら、こうした登用はなかったはずだ。
もし、鹿児島別院が専徳寺のような「むくり屋根」で再建されていたら、どのような風景になっていただろう。
鹿児島別院の当時の建物は現存しないが、順道の想いを今に伝える専徳寺の本堂は、今も変わらずここに建っている。


4月30日(木)
4月最終日は雨。
この雨で境内の白いハナミズキがほぼ散り、代わって裏庭の石楠花が開花。
つぼみの時は濃いピンク色なのに、開くと淡いピンク色になるから不思議。
花まつりコンサートが終わり、しばらくの間シジュウカラロスに…。
そのせいで免疫力が低下したのか、数日前、久しぶりに右膝が痛み、翌朝4時頃には左ふくらはぎがつって悶絶。
右膝はサポーターをつけると3日ほどで治まり、ふくらはぎはゆっくり動かすことで何とか回復。
これまでも何度かこのサポーターに助けられてきたけれど、やはり道具って大事。
以前、「電話応対をオペレーターのようにハンズフリーでできたら、両手が自由に使えるのに」と思って探したものの、なかなか理想のものがなく諦めていた。
しかし、調べているうちに「テレワープ」のことを知り、1年前に導入。
専徳寺宛にかかってきた電話がひかり電話を通じてスマホに転送され、外出先でも固定電話の子機としてスマホが使えるようになった。
また、外出先からでも、スマホを使って固定電話の番号で発信できるメリットは大きい。
先日の詐欺電話の一件で、ふと思い出したことがある。
お参り先で電話が鳴り続いているのに、どうして電話にお出にならないのかと伺ったところ、「知らない番号からの電話には出ないようにしているから」とのことだった。
なるほど。 そうされている方もいらっしゃるので、お寺の電話番号で発信できるのは本当にありがたい。
その詐欺電話の時、もしハンズフリーで電話に出ていたら、両手を使いながら同時にいろいろと調べることもできたのでは?と考え、再びハンズフリー化を検討。
スマホならBluetoothが使えると気づき、耳掛け式のイヤホンマイクを購入。
まだ「これがあってよかった!」と思うような機会はないけれど、音声はよく聞こえ、相手にもよく伝わっている感じ。
そして、今月初めに発注していたエンボッサーがようやく届いた。
ちょっとした場面でいろいろと使えるはずと、下り藤のデザインで発注。
きっかけは、たまたま小原古邨の木版画の作品に「空摺り」という技法が用いられているのを知ったこと。
空摺りとは、版画の版木に絵の具を付けず、紙に強い圧力をかけて凹凸(陰影)を出す技法のこと。
それに似た表現ができるエンボッサーというアイテムを見つけて、「これは面白い」と。
やはり、道具って大事。
4月20日(月)
花まつりコンサートから一夜明けて。
朝、境内に出てみると、何やら黒っぽいかたまりが。
近づいて見ると、
どう見ても鳥の巣材。
シジュウカラの巣が?
何だか嫌な予感。。。
ただ、ヒナの姿はどこにもない。無事にどこかにいてくれるのだろうか。
境内の防犯カメラ映像には何も映っていないし、鳴き声も。
それにしても、どうやってあの獅子の口からこんな大きなかたまりを取り出したのだろう。
それでもまだ巣にいるかも知れないと、シジュウカラが戻ってくるのを待った。
虫をくわえて帰ってきたけれど、獅子の口には入らず、キョロキョロとして飛び立った。
今日も元気な姿が見れると思っていたけれど、まさに諸行無常。。。
気を取り直して、午前中コンサートの後片付け。
場数を踏んだおかげで、要領よく片付いた。

4月19日(日)
今日は午後から専徳寺花まつりコンサート。
演奏者 CERCHIO(チェルキオ)のみなさんは、10時頃に来られて入念なリハーサル。
こちらの準備は昨日までに整っていたので、今朝は簡単に境内の清掃と広南中学校へ駐車場の看板を設置のみ。
曇り空、開演前に次々と人が集まって。
最初の挨拶で、緊張しながらオタマトーンを披露し、「花まつり」の由来を少し。
今から125年前の1901年、ドイツ・ベルリンで「ブルーメン・フェスト」というイベントが開かれた。
そのイベントを開いたのが、当時海を渡ってドイツにいた若き日本人留学生たち。
その中に、大谷派の近角常觀や本願寺派の薗田宗恵が。
近角常観は、のちに日本を訪れたアインシュタインに、仏教を説き、「現代科学に欠けているものを補う宗教があるとすれば、それは仏教です」と言わしめた方。
薗田宗恵は、大谷探検隊の初期メンバーで、探検隊が持ち帰ったヒマラヤスギを鏡如宗主が専徳寺にお手植えしてくださったことを紹介。
ドイツ語で「ブルーメン・フェスト」とは、英語で「フラワーフェスティバル」、日本語で「花まつり」。
125年前の若き留学生の思いをフッと感じながら。
演奏は、あっという間。
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今回は途中で一曲、抽選ですぐそばのSpecialシートで聞くことも。
楽しい楽しいひとときをみなさんと一緒に。
みなさんが帰られて、今日のシジュウカラ。
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今日はいつになく、騒々しかったかな。