5月19日(日)
今日予定されていた広南学園の運動会は、雨のため21日(火)に延期。
小坪自治会の薬師堂での法要も26日(日)に延期。

野外での行事は天気が心配。
雨が降ることも大切とは分かっていても・・・。
どちらもお世話さまでした。
そして、今夜は専徳寺門信徒会の総代会。
お内仏でのおつとめにつづいて、毎年6月に開かれる総会についての審議。
今年は6月17日(月)10時から開催することに決定。
世話係の皆さまにはご連絡が近々。
いろいろとお世話になります。
TEL.0823-71-7926
〒737-0136 広島県呉市広長浜3-13-21
5月18日(土)
午前10時より、隣の住蓮寺にて初参式(しょさんしき)。
5月21日が親鸞聖人の誕生日“降誕会(ごうたんえ)”。
できるだけたくさんの方にご縁にあっていただきたいと、降誕会に近い土曜日に、専徳寺と住蓮寺が毎年交替で行っている。
初参式とは、この1年に生まれたお子さんと一緒に仏さまに初めてのご挨拶。
今日は9名のお子さんとそのご家族がご縁にあった。
「らいはいのうた」をおつとめし、住蓮寺住職が『初参式の御消息』を拝読。
そして、私から一言ごあいさつの法話。
ご家族で、そしてみんなで記念撮影。
それぞれに自分らしく輝いて。
今日のことは恐らく憶えてはいないだろうけど、親の願い、祖父母の願いでこのご縁に。
そして、子どもを通してご縁にであったご家族の皆さんも、このご縁を大切に。
5月7日(火)
いつもは毎月8日が仏教壮年会の例会だが、明日夜席から永代経法要が始まるため、1日繰り上げての例会。
今日は浄土真宗の教えの一つ、「平生業成」について。
臨終に対して「平生(今)」。
「業成」の意味、「業事成弁」の説明をするのだが、今ひとつ伝わらなかったよう・・・。
臨終来迎、浄土教美術の上ではとても美しい姿が描かれている。
知恩院の国宝「阿弥陀二十五菩薩来迎図」(早来迎)や「山越阿弥陀図」など、学生時代に何度も拝見したが、美しかったのを思い出す。
ただ、浄土真宗では来迎も臨終も問わない。
今、浄土に往生する身と約束された者のこれからの生き方と、臨終の間際まで行き先の分からないでいる者との生き方。
人それぞれではあろうが、心持ちは違ってくるのではないだろうか。
その“今”を先送りしていたのでは、いつまで経っても未来の話。
広島で現在開催中の「菓子博」。
始まった当初、ニュースで「○時間待ち」というのを聞き、「もう少し落ち着いてから」と先送り。連休に入り、「連休明けにでも」と先送りしていたら、明日から法座。
結局、行くことも出来ずに、閉幕となりそう。
なかなかすべてをとはいかないが、「今」を大切にしたいもの。
明日の夜から「永代経法要」。
お誘いあわせてお参りを。
5月6日(月)
ゴールデンウィークもようやく最終日。
法事・法事・葬式・・と、毎日毎日よく続いた。
アベノミクス、アベノミクスと毎日のようにニュースで取りあげられるから、さぞかし景気も良く、皆さんゴールデンウィークはよそへとお出かけかと思ったが、一族そろって法事のご縁にあわれる方々が多く、大変有り難いことではあったが、さすがにこちらは疲れ気味。
法事では、GWの話から、「今でしょ!」というCMで流行っている話を交え、今このご縁にあうことの大切さについて。
今日も昼過ぎまで法事をつとめ、2時から仏教壮年会の境内清掃。
法務ばかりで家族サービスも出来ないため、子どもたちは妻と実家へ里帰り。
昨日帰ってきて、今日は清掃のお手伝い。
2人ともこちらが頼んだわけではないが、1時間ほどしっかりと。
休みでお疲れのところ、会員の皆さま、ご苦労さまでした。
4月13日(土)
朝5時33分頃、淡路島を震源とする震度6弱の地震。
呉市も震度3。
それでも、何も気づかず夢のなか・・・。
8時30分より住蓮寺にて、長浜日曜学校の入校式と花まつり。
今年は新1年生2名が入校。
甘茶とは、「甘露」。ヒンドゥー教の“アムリタ”に由来する。
アンコールワットにレリーフとして残る『乳海撹拌』が有名だ。
「アムリタ」とは、本来“不死”を意味するそうだが、死なないというよりも、“生きる”と味わう方がしっくりくるだろうか。
すべての「いのち」にありがとう
お釈迦さまの誕生により、私たちは「ありがとう」を学んだ。
大海の海底に目の見えない一匹の亀がいた。
その亀は100年に一度だけ、海面に顔を出すのだそうだ。あるとき、真ん中に穴の開いた一本の枯れ木が浮かび、漂っていた。
その大海に浮かぶ枯れ木の穴から、その目の見えない亀が顔を出す可能性が果たしてあるだろうか?と、お釈迦さまが弟子に尋ねた。
弟子は、絶対とはいえないが、それはあり得ないと答えた。
お釈迦さまは、おっしゃられた。
この亀が枯れ木の穴から顔を出すことよりも、この世に人間として生まれると言うことはもっと有り難いことなんですよ。
と。 (盲亀浮木のたとえ)
お釈迦さまの誕生を祝って甘露の雨が降った。
「生きる」雨だ。
生まれてきたとってもありがたい“いのち”を祝福して。
お釈迦さまの誕生も尊く、この世に生まれてきたものすべてが尊い。
生まれてきたことに「ありがとう」。
チロルチョコを食べて、その包み紙をマグネットに。
そのマグネットを見るたびに、「いのち」「ありがとう」をフッとこころに。
4月8日(月)
今日は広南小学校入学式。
昨日までの春の嵐で、少し桜は散り気味だが、青天のもと新1年生、入学おめでとう。
先日痛めた喉も、2日間休養して本調子ではないものの、声が戻ってきた。
今夜は仏教壮年会の総会。
そして、今日4月8日はお釈迦さまの誕生日。
仏壮会員の方に誕生仏のパッケージに包まれたチョコとマグネットのセットをプレゼント。
花まつりには甘茶をかけてお祝いするが、この甘茶はお釈迦さまが誕生されたことを天の龍が祝って降らせた「甘露」の雨に由来する。
「甘露」、古代インドのことばで“アムリタ”。
今日は「いのち」の大切さをお示しいただいたお釈迦さまの誕生日。
ただ、「おめでとう」と祝うのではなく、「ありがとう」と感謝。
全日本仏教会の花まつりポスターには、
すべての「いのち」にありがとう
と。
今年度もいろいろとお世話になります。
3月20日(水)
お彼岸の中日は雨。
長浜から広交差点へと向かう途中にある、しだれ桜が一気に花を咲かせる。
近所のソメイヨシノもだんだんと蕾が膨らんできた。
今日、印刷を頼んでおいた寺報が届いた。
これまで春の永代経法要と秋の報恩講法要の前に、法座の案内を総代・世話係のみなさんに配っていただいていたが、それをこのたび改めて、寺報として春と秋に配っていただくことに。
タイトルは『専徳寺報 念佛日和(ねんぶつびより)』。
「日和」とは、洗濯日和・行楽日和と使われるように、洗濯するのにちょうどよい、出かけるのにちょうどよいと、「○○するのにちょうどよい」という意味で使われる。
そこで、今日のような雨の日だろうが、晴れの日だろうが、楽しい日だろうが、悲しい日だろうが、毎日が「念仏するのにちょうどよい日」。
そんな思いをこめて、「念佛日和」。
仕分けをして、近々世話係の方からお届けに。
3月11日(月)
今朝、広南小学校で、読み聞かせや登下校時に児童の通学を見守ってくださる地域ボランティアの方々が招かれ、“ありがとう集会”が開かれた。
“ありがとうソング”まで久しぶりに聞かせていただき、こちらこそありがとう。
会が終わると、今日3月11日は東日本大震災から丸2年。
海に隣接した小学校。
地震・津波を想定して、地域の方々と一緒に避難訓練が行われる。
地震発生の知らせを受け、みんな体育館の中央にしゃがみ、頭を守る。

そして、津波を想定して地域の方々に誘導され、避難所専徳寺へ。


専徳寺まで避難して、校長先生より「津波てんでんこ」の話。
失われたたくさんの“いのち”。
そのことを通して”いのち”の大切さを改めて知る。

境内にはテント設営も行われたが、いざしようと思っても、なかなか出来ないということも知る。
東日本大震災から三回忌。
まだまだご苦労されている方もたくさんおられる。
いつまでも忘れることのないように。
3月8日(金)
急に暖かくなってきた。
花粉が飛び、黄砂が飛び、pm2.5が飛び、オスプレイが飛ぶ。
やっかいなものばかりが飛んでくるが、春の訪れも少しずつ。
螺山でウグイスの声を聞くようになった。
明日開かれる呉東組実践運動研修会の準備も整い、今夜は仏教壮年会の例会。
今日は、明日開かれる実践運動研修会にちなみ、「そっとつながる ホッがつたわる~結ぶ絆から、広がるご縁へ~」の「ごえん」。
本願寺のホームページに以下のことが。
「ごえん」 人と人を結びつける不思議なめぐりあわせです。
「ごえん」 わたしたちが自覚する以前から、つながっています。
「ごえん」 わたしたちが認識している以上に、遠くまで広がっています。
「ごえん」 過去から現在、現在から未来へとつながっていきます。
「ごえん」 誰もがつながっていけることです。
「ごえん」 わたしとあなたのことです。
「ごえん」 わたしと仏さまのことです。
「ごえん」 わたしのいのちを支えているものです。
「ごえん」 わたしがここに存在していることそのものです。
「ごえん」 わたしはあらゆるものにつながっています。
これらの話をしながら、これから仏壮でどんなことをしていったら良いか、少し話をしてみた。
ひとつは、念珠を作ってみる。
私も念珠の紐を編めるきっかけを持ちたいということと、みんなで何かをしてみようということを提案。
今日頼んでおいた本が届いた。
もうすぐ震災から2年。
亡くなられた方の顔を復元した方が綴った絵日記。
こうして一人ひとりの顔を見てると、改めて、一人ひとりの大切ないのちを感じる。
その人の存在。
最近は野菜にも、生産者の写真や名前が記されたものがある。
この人が丁寧に作ったものと感じると、やっぱり受け止め方が違う気がする。
念珠を自分で作るのも、愛着というか、大切に思う心が変わってくるかな。
また、それを子どもや孫にプレゼントすると、既製品とは大切に思う心が違ってくるように思う。
そこから「ごえん」が始まれば。
そんなことをちょっと考えてみた。