専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
TEL.0823-71-7926
〒737-0136 広島県呉市広長浜3-13-21
10月24日(水)
ただいま、広地区の通り報恩講。
今日は、お参り先でCDをいただいた。
「先生が作曲されたので」と。
呉の安楽寺前住職の信楽峻麿先生が作詞、安楽寺門徒 富田和代さん作曲の『佛慧(ぶって)』。
何と、歌は二階堂和美さん。
『み佛は』
『お念佛』
『わが生命』
の三曲。
お参り先でお下がりをたくさんいただいて、スクーターの後ろの籠はいっぱい。
スクーターで長浜へ帰ってくると、
「おっと、タヌキ!」
スクーターを止めて袂からスマホを取り出してパチリと。
こちらの気配を感じながらも、何とこっちへ向かってくる。
でも、すぐに後ろから車がやって来て、それに驚いていなくなってしまった。。。
車に気をつけて。
10月22日(月)
今日から広地区の通り報恩講。
先週から子どもたちが風邪。
また、ここのところ、お葬式が続く。
朝晩の気温差がこたえるのかな。
昨日は100歳の方のお葬式と、その半分の49歳の方のお葬式に。
49歳の方のお葬式には、お母さんがいろいろと故人のお話をしてくださった。
高校から就職の話までされて、「専徳寺のファンだったんですよ」と。
「ファン」???
今日のお通夜は、この12月に得度をされる予定だったお方。
中央仏教学院の通信教育を終えて、昨年得度を受けたいとごあいさつに来られた。
でも、得度習礼(得度する前の研修)の直前に病気が見つかってドクターストップ。
この夏も延期したけれど、今年の12月の習礼を受けたいからと先日挨拶に来られ、
「また直前になったら、五条袈裟の威儀の結び方を教えてもらおうと思います」
と、笑顔で住職印をもらって帰られ、つい先日も自宅の前でお見かけしたのに。。。
人それぞれ、その命を生きぬかれ、お浄土に。
先週土曜日に広南小学校はふれあい参観日だったけど、次男は風邪で欠席。
よくやく昨夜から普通に食事が出来るようになり、ここ数日ずっと家にこもり放しだったので、午前中の報恩講が終わった後に外出。
ただいま広島県立美術館で開催中のブリューゲル展。
一番印象に残ったのは?と聞くと、一番最初にあった『最後の審判』(広島県立美術館HP)
「地獄」は、ところ変わっても。。。
10月21日(日)
今日は朝9時からお葬式、法事が続いて、そしてお葬式。
時間に追われながら、次々とお参りする途中、
名田でヒドリガモの姿にほっこりと。
去年よりも数が多くなってるのは、家族が増えたのかな。
今日はクレイトンベイホテルで呉東組ご縁の会。
今回で第13回。
このたびは、男性3名、女性3名と、過去最少人数申し込みでの開催。
中止も考えられたが、せっかくの申し込みなので。
それなのに、男性1名急遽欠席。。。
どうなることかと思ったけれど、不思議なご縁でこうしてここに集ったとの、組長(そちょう)さんのお話からスタート。
最後のフリータイムでは、
一つのテーブルをみんなで囲んで和やかにティータイム。
参加人数が少なくても、これはこれで良いのかも。
意中の方を記名してもらって解散となったが、集計の結果、1組成立した模様。
近々参加者に郵送にて結果発表。
ようこそのご参加でした。
10月16日(火)
青空の広がる良いお天気に。
今日も引き続いて報恩講法要。
朝席では、正信偈のおつとめに続いて、『正信偈』のお話より。
覩見諸仏浄土因
ただ眺めるだけでなく、つぶさにご覧になられ、動いて見られている仏さまのお味わい。
そして、昼席で御満座。
天井の扇風機を少し回すほどの陽気に。
今年も善通寺御住職を導師に、住蓮寺・広真光寺・浄円寺・呉専徳寺の御住職に御出勤いただいてのおつとめ。
おつとめの後は、
如来の作願をたづぬれば
苦悩の有情を捨てずして
回向を首としたまひて
大悲心をば成就せり
のご和讃よりのお味わい。
最後に、癌で亡くなられた中島みどりさんの手記より、『大悲の親にいだかれて』を紹介してくださったので、ご紹介。
大悲の親とは、いったい誰のことかと思いますね。
そのお方はね、阿弥陀如来さまのことです。
お母さんは、幼い頃より死に対しての不安がありました。
ひとりぼっちになるのがこわかったのです。
死んでしまったらひとりぼっちになってしまうと思っていたのです。
愛する人たちと、死んでしまったら二度と会うことはできないのだと思っていたのです。
だから、とてもさみしくて、やりきれない悲しさで一杯でした。でもね、お母さんのお母さんがね、「心配はいらないよ、お寺にお参りして聞かせていただければ、きっと解決できるよ」と教えてくれたの。
だから、お母さんは必死でお寺にお参りしたわ。
でもね、わかろうとすればするほど、わからなくなるの、聞けば聞くほどわからなくなる気がして、お母さんも大学生ぐらいまでは、ありがたいとか、守られているとか、思ったことはないし、まして、安心などできようもなかった。
だから、いつも不安はつきまとっていた。でもね、あるとき、ふと胸が熱くなるほどありがたいなーって思ったことがあったの。
お寺にお参りして聴聞に遇っていたときだったと思います。
そして、とめどもなく涙があふれて私自身のおろかさと、この身の幸せを感じたことでした。
このとき、私ははじめて、ありがたい、もったいない大悲の親に、いだかれているのだなと思うことができたのです。
その気持ちは幼き頃、仏壇の中にあった親鸞聖人の『御一代記』を読んで涙し、感動したときのよろこびにも似ていました。お母さんの心の師は、親鸞聖人でした。
この親鸞さまの本がご縁で真実の親さまに遇うことができました。
ありがたいことです。
こうして病気になっても少しもさみしくありません。
仏さまと二人づれと思えば生も死もなくなります。
苦しいときも、痛いときも、楽なときも、いつでも一緒の阿弥陀さま。ついつい口から“なもあみだぶつ”と出てくださいます。
心配するな、ここにいるよ、といつも声をかけてくださいます。
ありがたいことです。お母さんの目は、凡夫の目だから、仏さまを見ることはとうていできませんけど、仏さまはいつも離れず、つきそって守ってくださっているのです。
それは、お母さんだけでなく、夏美や洋生はもちろんのこと、すべての人たちのことを、わが子のように大切に思ってくださっているのです。
だから、夏美も洋生もどうか手を合わせる子になってください。
お仏壇に、お寺にお参りしてくれるような人になってください。
そして、あなたたちが精一杯生きて、この世が終わったら母の待つ、お浄土に生まれてきてくださいね。
また会える世界があるということは幸せなことです。
この世でどんなにつらいことがおこっても、がんばってのりきれるでしょう。
死んでしまったらおしまいと考えるのはあまりにもさみしすぎますね。
死ぬのではなく、生まれてゆく世界があるのです。
愛する人と会える世界があるのです。
それがわかると安心してこの世を生きていけるでしょう。
夏美、洋生、どうか安心してこの世を渡ってください。
母はいつでも、あなたたち二人の心の中に生きつづけています。
さみしいとき、かなしいときは“なもあみだぶつ”ととなえてください。
お母さんはいつでも一緒です。
おかげさまで御満座。
ようこそのお参りでした。