呉東組聞名講 5月例会

5月10日(金)

今日は午後から専徳寺にて呉東組聞名講。

当初教法寺で開催予定だったが、諸事情により会所が変更となり、専徳寺で行うことに。

そして、法話の当番も。

この聞名講で専徳寺で専徳寺住職が法話を担当することはまずない。
だからこそ、いつもと違う形でしようかなと思って準備を。
行き詰まってばっかりだったのが。。。

専徳寺の由来から、この聞名講を設立した大洲順道の話へ。

大洲順道は、明治9年に専徳寺へ入寺し、10年に住職に。
その翌年、聞名講を設立。

そして、明治19年から約10年鹿児島別院。
その間、明治22年に専徳寺本堂新築。

日本一の模範村、広村にも多大なる影響を。

このめまぐるしい活躍の源は何だったのか。

 

2年前に「仁村守三」のことを知りたいと問い合わせがあり、初めてキリスト教の歴史の中に「大洲順道」が存在することを知った。

仁村守三。1800以降~1880以降
本願寺派の僧侶。肥前に生まれる。本名は大州順三。1870年6月長崎において聖公会宣教師G・エンソーから受洗。
72年諜者として日本基督公会の創立に加わる。
73年3月横浜公会堂第一回総会で執事に選ばれる。
同年9月東京築地小田原町新栄橋際に設立された東京日本基督公会に会員として参加し、その後同公会の地方伝道に当たり、島亘と共に武州引股村に出張伝道する。
76年粟津高明が退会した頃長老であったが、やがて教会を離れ、広島県賀茂郡長浜の真宗本願寺派専徳寺の住職となり、香川実玄と名乗ったといわれる。(『キリスト教人名辞典』)

ただ、「仁村守三」のことを調べれば調べるほど矛盾する点が多いのに、「らしい」とか「いわれる」の記述ばかり。
そんなこともあり、「なかなか受け入れがたい」と返答したのに、相手はまったく違う受け取り方をしているのを、とあるサイトで見つけた。

《諜者》であったのは事実かも知れないけれども、どうも合点がいかないので、国会図書館デジタルコレクションでいろいろ調べていると、順道が専徳寺へ入寺する前、「豊田道二(道爾)」「観山順道」を名告っていた時期があると。

六 大洲師の閲歷
 師は藤川逸平翁の長子で天保十四年廣島縣豊田郡竹仁村に生れたのである。幼時より學を好みて十四歳の時に出家得度し、それより縣内所々に遊學し文久元年十九歳の時笈を負ふて豊前中津に至り勸學善護師の門に入り宗乗の學を修むること三年にして帰国し、ますます教典の研鑽を積み、内外の律令史なども涉獵したのである。ところが王政維新に際し、世論漸く廃佛毀釋に傾き、加ふるに外さへ侵入の兆候ありたれば憤慨して止まず、早速本山に上りて宿弊改新の議を建白し続いて長崎に下り、英學研究の傍ら内外の形勢を察して遂に國事に奔走するの念慮を起すに至ったのである。
 そこで明治四年四月には東上して時の太政大臣三條公其他の權門に出入して廢佛毀釋の謂れなきことを論明し、島地默雷大洲鉄然小栗憲一等の有志と提携して、教部省設置のために盡力したのである。そして九年四月に数部省出仕を拝命するに至ったのであるが、間も無く同省が廢止さるゝこととなったので、東京を辞して本山に帰り再び僧形に復したのである。
 師が髪短袖、自ら豊田道爾又は観山順道と呼んで居った時代はこの國事に奔走して居った時のことである。
 かくて明治十年九月本村專徳寺に入り翌十一年九月住職となったのである。
 専徳寺の所在地なる長濱は村の南端にありて戸数八百を算し漁民と農民と相半して之に商賣を交ゆるところであるが、居民多くは頑固曖昧にして渡す可からざるものゝ多かったところである。然るに師は明治十年入寺の當時より、政令を遵守すべきこと、時間を貴ぶべきこと、節約勤倹なるべきこと、斷髪のこと、新暦遵守のこと、就學のこと、悪疫豫防のこと、兵疫應徴のこと、租税完納のこと、林伐の禁制を守ること、賭博喧嘩の取締のこと、訴訟紛議の仲裁等、一々懇諭して、啻に心身の勞を惜しまなかったと云ふばかりでなく、之が矯正を計るためには再三私財を投じたことがあったのである。
 自坊再建のことは多年の宿望であった。それで率先して私嚢を投じて喜捨金を募ったところが、數萬金を得たので明治二十二年二月工事に取りかゝり、八ヶ月の工程を経て同年九月に至り、近郷には比類稀なる荘厳善美の大伽藍を建立するに至ったのである。
 之より先、明治十九年八月から、師は鹿兒島別院を兼職することになつたのであるが、二十九年二月に至るまでの十ヶ年間、一意専心に同地方の布教に盡力して、管下十餘萬の信徒を服せしめたので、別院の再建も成就するに至ったと云ふことである。而も其間に道路開鏧のことのこと、勞役勧誘のこと、實業奨勵のことなどに盡力し、要路の當局者に後援を送ったことが多大であったので、當代縣知事の厚遇を得たと云ふことである。
 師は其後本村に歸住してからも、相も渝らず数化善導のために盡力して居られたのであるが、明治三十五年に至り住職を退いて寺務一切を新住職に一任されたのである。併し教化善導のために盡力することは毫も渝らないのである。ところが新住職が昨年急病にかゝり死去されたそうで、之れには師も餘程當惑して居られると云ふことであった。
 大洲師の歴を調査したことは、端なくも本村の人物について調査して見たいと云ふ考を誘起されたから、藤田村長に其由を語りたれば多少調査したものがあると云って、調査資料を示されたから、之により最近の篤志家、又は善行者を調べて見たら次のやうな人々がある。(『学校中心 自治民育要義』 村田宇一郎著 明治43年)

 諜者との記述はないが、そこから光明の糸口が。

 

 順道は、明治元年に本願寺に入り、原口針水に師事。
 当時、キリスト教を長崎で学び、詳しかった原口針水が本山にて破邪顕正御用掛に任用された。
 そして明治2年、太政官の弾正台が設立。

 こうした経緯で、順道もキリスト教の実情を探るため、所謂「諜者」として潜入したのではないだろうか。

 《豊田道二》は、大隈文書によると、東京での上級諜者の名前として登場。
 《観山順道》は、教務省の名簿に。

その活動記録が、早稲田大学の大隈文書に残っている。

それらを見ると、その頃の「諜者」はキリスト教解禁前の様々な情報を上(太政官)に報告していたよう。

ただ、キリスト教の実情を目の当たりにして、これは太刀打ちできないと思ったのだろうなぁと。

 

キリスト教禁止が解け、廃仏毀釈も徐々に沈静化していくなか、本願寺へと戻った順道は専徳寺に入寺。

そこからのめまぐるしい活躍は、広村に掲げられた「教育第一」。これが一番だったのかなと。

順道と一緒に諜者として知られる安藤劉太郎(関信三)。
大谷派の僧侶で、日本で最初に幼稚園を設立した人。

大隈重信が早稲田大学を創設し、安藤劉太郎が幼稚園を日本で初めて設立し、大洲順道は真徳教社(崇徳教社)、広島学寮などの設立にも名前が出てくるのを見ると、キリスト教から学んだのは、いずれもいずれも「教育第一」だったのかなと。

大洲順道は豊田道爾(道二)。

これは間違いないことだと思う。

ただ、その経験を活かして、隠遁して隠れることもなく、動いている姿に改めて。

 

そのあと、御示談。

今日の問いは、

私は、必ず終わる命を生きていると知りながらも目を背けています。あなたの後生の一大事の解決を教えてください。

導師に法話に御示談と一人でするのはちょっと大変かなと。

それでもこのご縁を通して学んだことが。

ようこそのお参りでした。

 

2024年5月10日 | カテゴリー : 呉東組 | 投稿者 : sentoku