専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
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3月9日(水)
宮沢賢治の作品、『おきなぐさ』。(青空文庫『おきなぐさ』)
うずのしゅげを知っていますか。
うずのしゅげは、植物学ではおきなぐさと呼ばれますが、おきなぐさという名はなんだかあのやさしい若い花をあらわさないようにおもいます。
そんならうずのしゅげとはなんのことかと言われても私にはわかったようなまたわからないような気がします。
こんな風に始まる『おきなぐさ』。
昨年春に植えた翁草。
枯れた後、根元を残して切り取っていたところから、白いうぶ毛が生えてきた。
昨年植えた時は既に花が咲いた状態だったので、初めて見る光景。
翁の白髪というよりも、仔猫のうぶ毛といった感じ。
《うずのしゅげ》とは宮沢賢治のいた岩手県での呼び名で、「うず」とはおじいさん、「しゅげ」とはひげ。「おじいさんのひげ」という意味らしい。
今日のこの姿を見ると、「なんだかあのやさしい若い花」という表現がなんだか分かるような。
下の写真は昨年のもの。
この花を植えなかったら、宮沢賢治の『おきなぐさ』に会うこともなかったかも。
今年もこんな姿が見れますように。
3月8日(火)
3月6日に広島県のまん防(まん延防止等重点措置)が解除されたのを受け、今夜は令和4年になって初めての仏教壮年会の例会。
1月は翌日9日よりまん防が適用されることになったため、急遽中止。
来月は総会に当たるので、しばらく連続して開催する目処が立たないため、コロナ前にやっていたお釈迦さまの生涯は今しばらく休み。
そこで、今日は何を取り上げようかと考えていたところに、大洲順道のこと。
今年が亡くなられてちょうど100年。
先日、「専徳寺住職であった大洲順三」のことを知りたいと問い合わせメールをいただいた。
「大洲順三」?
そのメールに「仁村守三」という名が記されていたので調べてみたら、Wikipediaにも。
キリスト教の歴史の中では、いろんなところに出てくる名前みたい。。。
長崎や東京にいた頃、順道と重なる時期もあるのだけど、どう見ても生存年代に40年ほどの隔たりが。。。
仁村守三 | 大洲順道 | ||||
寛政12年頃 (1800) |
肥前に生まれる | ||||
|
天保14年 (1843) |
豊田郡竹仁村に生まれる | |||
文久元年 (1861) |
18歳 | 松島善譲門下に入る | |||
明治元年 (1868) |
25歳 | 本山に入り、原口針水に従事 長崎でキリスト教を |
|||
明治3年 (1870) |
70歳 | 長崎で洗礼を受ける | |||
明治4年 (1871) |
28歳 | 東京で教部省設立に関わる | |||
明治6年 (1873) |
73歳 | 日本基督教公会設立に関わる 東京に移る |
|||
明治9年 (1876) |
76歳 | 新栄教会の長老に就任 | 明治9年 (1876) |
33歳 | 教部省に出仕 |
明治10年 (1877) |
34歳 | 教部省が廃止され、本山奉職 | |||
明治11年 (1878) |
35歳 | 専徳寺に入寺 | |||
明治13年頃 (1880) |
80歳 | 亡くなる | |||
明治19年 (1886) |
43歳 | 鹿児島出張所(別院)へ | |||
明治32年 (1899) |
56歳 | 本願寺執行に | |||
大正11年 (1922) |
79歳 | 亡くなる |
仁村守三が洗礼を受けたとされる70歳の年、順道だと27歳となる。
年齢詐称するにも、この差は如何に?
資料によっては「順三」とか「順造」と記載されており、「順道」と正しいものがない。
仁村は本名を大洲順造と云って、後ち広島県賀茂郡長浜の真宗本願寺派専徳寺の住職となったと云はれてゐる。
「言われている」と、どうやら確実な資料もないみたいで。。。
こちらには隠すこともなく、諜者(スパイ)であったと認めようもないのだけれど、キリスト教と向き合っていたことは事実。
モヤモヤするので、当時のことを少しでも知ろうと、島地黙雷の本を取り寄せて読んでみたり、遠藤周作原作の映画「沈黙 サイレント」(マーティン・スコセッシ監督)を観てみたり。
江戸から明治。
尊王攘夷のことも宇都宮黙霖を通して何度も見てきているけれど、キリスト教に対する当時の脅威は並々ならぬものであったよう。
今では当たり前のようなことが、全然違っていた時代。
インターネット上にもいろいろ出ているみたいなので、みなさんと一緒に考えていきたいと思い、今日はこの話を。
いずれにしても、命がけで信仰を守ろうとした方がいた。伝えようとした方がいた。
そして、今のご縁がある。
そのことを学ぶ数日。
ようこそのお参りでした。