専徳寺のぶろぐです。
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10月8日(土)
今夜は仏教壮年会の例会。
7月は弘願寺仏教壮年会との交流会、8月は納涼会、9月は婦人会との共催で「講演とビデオの夕べ」があり、久しぶりの例会。
10月は報恩講。
一昨日おみがきをしていただいて初めてのご縁。
会で用意していただいたお供えを、例会後にお下がりとしていただく。
今日は「本物」というテーマで話をした。
どじょうがさ 金魚のまねすることねんだよなあ
一躍有名になった相田みつをさんの詩。
タイトルは「みんなほんもの」。
相田みつをさんの生涯を紹介し、『おかげさん』に見られる親鸞聖人のことをいろいろとお話させていただいた。
相田みつをさんは、禅を学びながら、親鸞聖人の人間観にも惹かれるところがあったのだろう。
本の中で2箇所出てくる。
いざとなると 人間は弱いからねえ
にせもの
「お父さんはな、若い頃、剣道をやったから、泥棒の一人や二人、短刀を持って入ってきたって平気だぞ。」
酒をのむと、私は女房子供相手に、よく威勢のいいことを言っておりました。
ところが、ある冬の夜中に、本当の泥棒が短刀を持って入ってきたんです。そしたら一番ガタついたのが私でした。
剣道も禅も、みんなふっ飛んじゃいました。なんともだらしのないことですが、ホントの話です。『勇ましくカッコいいことをいう者はにせものだ。』
その昔、親鸞聖人は教えています。 (『おかげさん』108-109頁)
これでいいとは思いませんが これしかできない わたしには
卑屈と傲慢
親鸞聖人は、有名な『歎異抄』の中で、自分を含めて人間のことを、
煩悩具足の凡夫
―迷いと欲望の固まりの凡人―
といっております。これは親鸞の、きびしい自己否定だと思います。ダメ人間の代表、それが自分だ、というわけです。
一方、ここ一番、という大事な時には、
「親鸞におきては・・・、」
と、責任の所在を明確にして、きっぱりといい切り、テコでも動かぬ自信の強さを示しております。こちらは、親鸞の、絶対の自己肯定ですね。
きびしい自己否定がなければ、人間はすぐに傲慢になります。一方、絶対の自己肯定がなければ卑屈になります。
卑屈にも傲慢にもならないためには、自己否定、自己肯定、共に必要ですね。 (『おかげさん』66-67頁)
先日亡くなったアメリカのiPhoneの生みの親、S・ジョブズ氏。
この方も、禅の教えを学んでいたそうだ。
何と、ピクサーのアニメもこの人が生みの親。
それを知って、PIXARの「I」が電気スタンドで表されているのが頭に浮かんだ。
この人は「i」に何か大きな意味を持っているのだろうかと。
お葬式が続いているが、そこからいろんなことに気づかせていただくことも多い。
そのご縁を大切に。
10月6日(木)
今日の天気は雨の予報だったが、朝から青空のひろがる天気に。
朝から寺の報恩講法要を控えて、仏具のおみがき。
本堂にある金色の蝋燭立や華瓶、香炉などは真鍮製。
真鍮製の仏具は、真鍮専用の研磨剤などを使ってピカピカに磨く。
黒っぽい仏具は宣徳(せんとく)。
宣徳とは、真鍮の上に漆を塗って焼き付けたもの。
この宣徳の仏具は、柔らかい布で軽く拭く。
それぞれに違った方法でピカピカにしていく。
こうして掃除をしていると、『阿弥陀経』に出てくる周利槃陀伽(しゅりはんだが)のことがふと頭に浮かぶ。
周利槃陀伽は、生まれつき物覚えも悪く、自分の名前さえ覚えられない。
その彼にお釈迦さまは一本の箒を与え、「塵を払い、垢を除く」のことばを繰り返し唱えさせながら掃除をさせた。
一心に「塵を払い、垢を除く」と掃除をするうちに、汚れが落ちにくいのは人間の心も一緒だとさとり、ついには阿羅漢果を得たとされる。
あの赤塚不二夫氏の『天才バカボン』のレレレのおじさんのモデルともいわれる人物だ。
一年間でたまった自分の心の垢も除くことが出来ればいいのだろうが、この垢はなかなか・・・。
それでも、こうして仏具はみなさんのおかげできれいになり、お内陣が明るくなった。
お手伝い、ありがとうございました。
おみがきをしているときに、耳にしたのがサルの話。
長浜に、今朝サルが出没したそう。
山のなかでの出来事かと思ったら、何と!寺のすぐ前を通って入江神社の方へと向かったとか。
小学校は、安全のため、先生が同伴で下校。
しばらく、このサル騒動が続くのだろうか。
来週の報恩講法要。
サルがお斎の材料に手を出さなければいいが。
もし、手を出すなら、ちゃんとお参りしてからどうぞ。
10月3日(月)
今日から3日間、白岳地区の報恩講。
今朝、窓の外で、今秋初めてモズの高鳴きを聞いた。
この声を聞くと、
ちいさい秋 みつけた
モズといえば、あんまりいい話が残っていない。
5月に当ブログで紹介した「忍音」。
そこにホトトギスとモズの話が出てくるように。
そして、モズといえば、早贄(はやにえ)。
捕獲した虫などをとがった枝の先に突き刺すことで知られる。
お釈迦さまがたとえ話でこのモズの話をされているそう。
モズは、冬に備えて虫やカエル・トカゲなどを捕まえては枝の先に突き刺している。
そのモズは、突き刺したエサの場所を忘れないようにと、空にある羊雲を目印にしようとした。
でも、その目印であるはずの羊雲は、どんどん動いている。
それで、モズは早贄にしたエサを食べれずに過ごしているのだと。
これは、何をよりどころとして生きるかのたとえ。
モズは、漢字で「百舌」とか「百舌鳥」と書く。
これは、二枚舌ならぬ、百枚も舌があるというわけではない。
いろんな鳴き声をマネすることができるからだそう。
一度だけ、まるで小鳥のさえずりのような声を出しているのを聞いたことがある。
『阿弥陀経』のなかに、
白鵠・孔雀・鸚鵡・舎利・迦陵頻伽・共命之鳥
と、浄土にいる六種の鳥の名前が出てくる。
そのなか、「舎利」。
この「舎利」を中国の経典の注釈書には、「鶖」とか「鶖鷺(しゅうろ)」、また「鸜(ははつちょう)」、「鴝鵒(はっかちょう)」などと書いてある。
「鶖」とか「鶖鷺(しゅうろ)」とは、水鳥のことであるので、少し意味が違うように思うが、「鸜」とは九官鳥、「鴝鵒」はハッカチョウといって、どちらも黒くて人間のことばを真似ることができる鳥のこと。
ただ、その後にこれらの鳥は「百舌鳥」のことであると書かれてある。
九官鳥とモズは姿も声もまったく違う鳥ではあるが・・・。
これは、当時の中国で、恐らく九官鳥やハッカチョウという鳥を見たことのないものにとって、ことばで何と説明しようと、その姿は分からない。
そこで、モノマネをする鳥といえば「モズ」のような鳥。ということだったのだろう。
まったく違った鳥ではあるが、中国では浄土の鳥「舎利」はモズのこととして訳された。
なかなか他の鳥と違って、浄土の鳥?という感じではあるが、そんな鳥がそのままの姿でいるのも浄土かな。