こえをきく

6月25日(土)

 今日の中国新聞朝刊に、

呉市議会で「手話言語条例」が可決され、今月中にも施行予定と。

先日、広島市内で全国ろうあ者大会が開かれ、全国からたくさんの方がお越しになられた。
宇都宮黙霖のこともたくさんの方に知っていただけた。

 

いろいろなご事情で耳で聞くことのできない方が、手話を使って会話をされる。

耳で聞こえなくても、手指、顔の表情を通してことばを「きく」ことができる。

「音声言語」と「手話言語」。
どちらも〈ことばをきく〉。

 

浄土真宗で大切なのは「お聴聞」。

ただ、耳で聞くばかりではない。

 

先日、数冊古本を買い求め、ただいま読書中。

1冊は『わが名を称えよ 念仏行者松原致遠師の心あらう話

その中に、「ちっとも聞こえません」と言う章。

 伊勢におすわという、稀にみる殊勝の聞法者がある。このおすわさんに逢うたびに、私は「おすわさん、ちかごろはどうかね」とたずねる。実はこの人のことばによって、必ず何らかの光に遇ういつもの大功徳を、内々予期して聞くのである。するとおすわさんは、たいていのときに
 「ちっとも聞こえません」
 「聞いてくれんのに困ります」
という。こういう生命体験の表現こそ、はつごとはつごとと思って聞くべきである。

 実はこれこそ百雷である。聞えたというような小主観、自利各別の心を、全的に根本的に否定するものである。(136頁)

と。

 浄土真宗のみ教えは、ただ話を聞いて分かったと言うのではなく、南無阿弥陀仏の声をきく。

 この本を求めたのは、序文に書かれた榎本栄一氏の

宗教の救いというものは、ただこの「見えておる」ということに尽きるのではないでしょうか。そして松原先生のお説きになった智慧の念仏の極意こそ、この「見えておる」ということなのです。念仏申して内観深まり、その内観から生まれてくる智慧というのは、ただこうして自分が「見えておる」という一言に尽きるのだと、いよいよ深く知らせて頂いております。

その「見えておる」お念仏に興味を抱いて。

 

先日、注文していたフィギュアが届いた。

小振りながらも精巧に作られた京都六波羅蜜寺の空也上人像のフィギュア。

春に東京国立博物館で開かれた「空也上人と六波羅蜜寺」で好評だったものが、朝日新聞社のサイトで販売されるのを知り、すぐに注文。

日本で初めて口称念仏をひろめた空也上人の口の中から六体の阿弥陀さま。

お念仏の一声一声がみな仏。

まさに、 

綺田かばたの和上が「御声が親様である。活仏はこれじゃ。」と仰せられた。
(中略)声のなかに親をきく。声に親をきいた端的の叫びが、「御声が親様である」の驚喜となったのである。音声において音声を超えた無声の声をきくのである。(34頁)

と。

また、同じような話が、もう1冊の本の中に。

『幸福は聞える声の中に』(中川静村)

 親心をよびさますのは子のよび声、子心をよびおこすのは親のよび声。娘よ。お前が今幸福なら、それは親の声が届いている証拠。私もお前の声が聞える故に、今幸福である。大和と紀州は、念仏の中では距離も、時間もなくなる。
 古い新しいの問題ではない。
 仏、浄土、往生、涅槃、本願などのお言葉は念仏の中で生々と私たちによみがえる。
 古いとするのは聞えぬためである。
 ただ念仏することが大切である。念仏の中で、新しい今日の生き方が、仏から、じかに聞えてくる。聞えるまで念仏することである。自分の声をさしはさんではならない。
 闇とは、きこえぬ世界である。念仏はきこえぬ世界に光りとなる仏智である。すくわれるとは、仏智にすくいとられることである。すくいとられる私に、はからいは何の用もなさない。娘よ。そっくり素直に耳をかたむけよう。幸福はただその声の中にある。(177頁)

 

偶然なのか、意図的なのか、お二方とも「聞く」と「きく」、使い分けておられるようにも。

〈こえをきく〉