8月10日(火)
台風9号も過ぎ、今日は青空。
今朝、今年2つ目の大名蓮が咲いた。
風で少し傾いたけど。
咲いたと言っても半開き。
全開となるのは、明朝かな。
恐らく今夏最後の蓮の花。
明後日の天気は大雨の予想なので、明日が見納めかも。
きれいに咲いてくれれば、これで今年株分けした蓮、4鉢ともすべて花をつけることに。
おのづから月やどるべきひまもなく池に蓮の花咲きにけり 西行
ちゃんと願いが届いて、南無阿弥陀仏の花開く。
TEL.0823-71-7926
〒737-0136 広島県呉市広長浜3-13-21
7月30日(金)
今朝、同時に2輪の案頭春が。
写真で見ると大きく見えるけど、実際には
直径10センチほどの小振りな蓮。
緑の葉っぱに赤い蓮、そして鮮やかな黄色の花托。
蝉時雨の中、清涼と。
露の身は ここかしこにて 消えぬとも
こころは同じ 花のうてなぞ (法然聖人)
流罪で四国へ赴く法然聖人が、九条兼実公への返歌として詠まれたそう。
「うてな」とは、漢字で「台(臺)」とか「蕚」と書き、『源氏物語』にも、
はちす葉をおなじうてなと契おきて露のわかるるけふぞかなしき
と、古来よりお浄土を蓮台で表現。
そして、親鸞聖人はお名号に蓮台。
蓮はお浄土を想う花。
夏たけて堀のはちすの花みつつ仏のをしへおもふ朝かな
昭和天皇もお詠みに。
明日もきれいに咲きますように。
7月1日(木)
今日から7月。
そして、今日は呉空襲の日。
いろいろと思いを馳せながら。。。
国立国会図書館デジタルコレクションの『現代名流自伝』第1編に、前田慧雲勧学が「子の受けたる境遇と感化」と題して書かれた中に、石泉僧叡和上のことを挙げられていたので紹介。
石泉僧叡の事蹟に感ず
それから二三年の後、父から仏学の談を聞くに就て、時々真宗の先哲の譚をして呉れた事があります。其の中に就て最も感じたのが、芸州の石泉僧叡といふ人のことで、父がそれを談すに就て、学問と云ふものは、此人の様な学問でないと真実な学問でない。此石泉師のは自身の心の底からして出た学問で、真の学問である。書物に書いてあるのを読んで覚えたり、口の上から聞き込んだ丈けのものでは、学問とは云へない。今日の学者は皆書物の上の事を受売したり、師匠の云ふた事を繰り返すに過ぎないので、真実の学者でない。真実の学者は、自分で一見識を立てて、自分の心から出したものでなけらねばならぬ。処が此僧叡と云ふ人は、自分の説が当時の学者に容れられず、本願寺からして糺問を受けたけれどもそれにも屈せず、安芸国の一田舎の長浜といふ処に隠居して、自ら学生を養うて、一生の間本山へは用ゐられずして終った。その僧叡の目から見ると、本山に用ゐられてゐる学者共は子供同様であって、初めから相手にしなかった位であると話されて、大に感動しました。成程、学問は書物に書いてある通りを其儘云ふてゐる様ではつまらぬ。どうしても一個の説を立てねばならぬといふ考が起りました。其後と云ふものは書物を見る度に、無理矢理にでも自説をこしらへて見やうと力めて、論語を読んだ時には『論語考』といふものを書いて、其草稿が何処やらに有りましたが、今見るといふと可笑しい事ばかりではあるが、斯う云ふ事が多少の見識をつけました。
学問とは、そのまま受け売りするのでなく、自身の心の底から出てくるもの。
いつの時代も、先人の言葉に学ぶべきことが。
ちなみに、前田慧雲勧学は、専徳寺に建つ大洲順道の頌徳碑を書いてくださっている。
6月30日(水)
現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは仏教です。
そう語ったのは、アインシュタイン。
今日6月30日は、1905年(明治38年)、アルベルト・アインシュタインが相対性理論に関する最初の論文「運動する物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌『アナーレン・デル・フィジーク』に提出したことから「アインシュタイン記念日」と言うらしい。
アインシュタインと言えば、先日次男がこの本を読みたいと言うので取り寄せた。
トーベン・クールマンの新作、『アインシュタイン ―時をかけるネズミの大冒険-』。
リンドバーグ、アームストロング、エジソンに続く第4弾の絵本。
長男が6年生の時、6年生に読み聞かせで第1作目の『リンドバーグ』を読んだ。
その時1年生だった次男にも、家で練習を兼ねて読んだ。
このシリーズを読み聞かせで読んだのはその一度きり。
読み聞かせで読むにはあまりにも長かったので。。。
でも、それをきっかけに、新作が出るたびに揃えていった。
そして、中学に入っても、この本を読みたい、リンドバーグを読んでもらったの覚えてる、このシリーズが一番好きだと。
何がきっかけになるか分からないなぁと思いながら、今日この本を読む。
絵もリアルだけど、物語もひょっとしたらホントにネズミが?と思ってしまうくらい面白い。
コロナ禍で寺内の人流は相変わらず少ないけれど、いろんな珍客往来。
胡麻斑髪切(ゴマダラカミキリ)
「胡麻斑」 〈ごま まだら〉と書いて「ゴマダラ」
ゴマちゃんで知られるゴマフアザラシは「胡麻斑海豹」と書いて〈ごまふ あざらし〉と読む。
〈ごまだら〉と〈ごまふ〉、その線引はどこだろう。。。
赤手蟹 (アカテガニ)
まるで真っ赤っかのボクシンググローブを着けてるみたい。
カニは何故横に歩くのだろう。。。
木瓜 (ボケ)
木瓜の実が黄色く色づいた。
先日、『いのちの荘厳 仏華』(本願寺出版社)を読んでいると、ボケはトゲがあるので仏華には向かない「禁花」であると。
そこで初めて、ボケってトゲのある花だったのか。。。と。
専徳寺のボケはすべてトゲなし。
特に手水鉢の側のボケは、トゲがないので水浴びに来たメジロの止まり木。
女郎花 (おみなえし)
桜の側に植えた女郎花の背丈が急に伸びて、その先につぼみが。
どんな花が咲くかなぁ。
その隣の藤袴はバッタに葉っぱをかなり食べられたので、花をつけるかちょっと心配。
想像力は知識より大切だ。
なぜなら、知識には限界があるからだ。
-アルベルト・アインシュタイン-
知識には限界があるけれど、ご縁に限界はない。
いろんな人やいろんなことに出会い、いろんなものに触れていくだけで、想像する力が生まれる。
もちろん、触れたくない縁もあるかも知れないけれど。。。
それもまたご縁なのかな。
6月28日(月)
境内の植木鉢の縁に一本の細い枝がピンと。
??じっと見てると、何と!動き出した。
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尺取り虫。
シャクガと言う蛾の幼虫。
中国の曇鸞大師は『往生論註』に「蚇蠖 ・蚕繭 」の譬えを。
⇒《参考》浄土真宗本願寺派総合研究所
仏本この荘厳清浄功徳を起したまへる所以は、三界を見そなはすに、これ虚偽の相、これ輪転の相、これ無窮の相にして、蚇蠖 〈 屈まり伸ぶる虫なり 〉の循環するがごとく、蚕繭 〈蚕衣なり〉 の自縛するがごとし。あはれなるかな衆生、この三界に締 〈結びて解けず 〉られて、顛倒・不浄なり。(『往生論註』七祖註釈版57頁)
「蚇蠖」と言うのが尺取り虫。
植木鉢の縁をぐるぐるぐるぐると回っている姿がまさに循環するがごとく。
蚕は糸を出して繭を作り、自分を閉じ込めてしまう。
そんな虫の姿を譬えて、私たちの世界は迷いの境界だとお示しくださった。
また、曇鸞大師は他にも有名な譬えで、
「蟪蛄は春秋を識らず」といふがごとし。この虫あに朱陽の節を知らんや。知るものこれをいふのみ。(『往生論註』七祖註釈版98頁)
と。
『荘子』の「朝菌は晦朔を知らず。蟪蛄は春秋を知らず」を引用した譬え。
「蟪蛄」とはセミのこと。「朱陽」とは夏のこと。
虫、鳥、花、取り巻く世界すべてがお念仏のご縁に。
6月22日(火)
〈死〉について、なるべく避けて通りたいと思っている方が多いのではないだろうか。
ただ、
われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。(白骨の御文章)
誰もが避けては通れない。
そんな〈死〉を語り合う活動が若い方を中心に行われているそう。
『本願寺新報』6月20日号の掲載記事を見て、
死生観光トランプ
を早速注文。
ホームページ《ワカゾー流デスカフェ》より
昨年クラウドファンディングで販売されたのを知った時にはすでに遅し。。。
でも、遅ればせながら。
本日、届いた。
ホームページより無料ダウンロードも出来るようだけど、やっぱり実物が良い。
世界中の《死生観》から、《死》について身近な問題として考えることができるかも。
また、先日取り寄せて読んでいる本がこちら。
『お葬式の言葉と風習』
柳田國男『葬送習俗語彙』の絵解き辞典 (髙橋繁行)
お葬式にはよく分からず使っている言葉も多い。
また、他所の地域のこと、他所の宗派のことは知らないことだらけ。
「門徒もの知らず」
これだけ見ると、そうかも。
この辺では知らないことばかり。
原本の『葬送習俗語彙』は、国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができるけれど、この本は切り絵の白黒の挿絵が何とも。
そして、この本に何とも不思議なことが。
広島へタバコ買いに行った
人が死んだことを意味するユニークな隠語。亡者が広島へタバコを買いに行くのでなく、裏の意味する本命は、世界遺産の厳島神社と背後にそびえる霊山、弥山。中国・四国地方では厳島神社を他界とする観念があって、こう呼ぶようになった。弥山は、特に瀬戸内海対岸の四国の人々が、死んだら魂はこの山に還ると言われている。同様の言い方で、近畿圏では熊野に、東北地方の人々は恐山に還るという。日本人は十万億土のかなたの阿弥陀浄土よりも、身近な山中他界にあの世を求めがちだ。
「広島へタバコ買いに行った」なんて言葉をこのあたりでは一度も聞いたことがない。
海の上に建つ厳島神社は、平清盛がお浄土を表した建物と言うのはよく聞く話ではあるけれど。
「終活」
自らのお葬式のこと、お墓のことを準備することを言うのではなく、〈死〉と向き合うことで、最後までどう自分らしい人生を送るかという準備。
〈死〉を通して〈生〉を。
緊急事態宣言が解除され、今日は午後から久しぶりに広島別院でサンガ部会。
何だか浦島太郎。。。
6月8日(火)
今日はお参り先でお仏壇の上に掛かっていた順道の書を撮らせていただいた。
専徳寺第17世住職 順道の書は、寺には残ってなく、ご門徒さんのお仏間で時々見かける。
背私向公
「背私向公」とは、親鸞聖人が倭国の教主と崇められた聖徳太子の『憲法十七条』のことば。
十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。
十五にいはく、私を背きて公に向くは、これ臣の道なり。すべて人私あるときはかならず恨みあり、憾みあるときはかならず同ほらず、同ほらざるときはすなはち私をもつても公を妨ぐ。憾み起るときは、すなはち制に違ひ法を害る。故初めの章にいはく、上下和ひ諧ほれといへるは、それまたこの情なるかな。(註釈版聖典より)
私情を交えると、そこには当然好き嫌いが生まれ、公平な仕事、まつりごとは出来ない。いつの時代も。
今年は聖徳太子1400回忌。
4月30日(金)
今日は広南中学校、今年度初めての参観日、その前にPTA総会。
1年生、入学式の凜々しい制服姿が約1ヶ月経ってさまになってきた。
参観日は理科の時間。
花の観察。
今年度から導入された生徒一人につき各一台のiPadを使って、写真を撮ったり、ルーペで見たり。
法務のため、さわりをちょっとだけ参観。
一昨日から昨日の雨で、境内のヒマラヤスギの住民たちは大丈夫かなと心配だったけど、今朝高層階に住んでるカワラヒワの元気そうな声が聞こえてきた。
低層階に住んでるキジバトは、雨の中でもじっと卵を温め、今日もじっと。
もう2週間ほどになるので、そろそろ孵るかな?
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そういえば、専徳寺の山門には鳩瓦。
鳩瓦の由来を調べてみたら、
鳩に三枝の礼あり 烏に反哺の孝あり
という諺があるそう。
ハトは育ててくれた親の恩に報いるために三本下の枝に止まり、カラスは育ててくれた親の恩に報いるために老いた親鳥に口移しで食べさせる。
親孝行の意味があるのだそう。
他にも、キジバトは夕方から朝までメス、朝から夕方までオスが卵を抱いて温める。
そんなところから夫婦和合という意味もあるとか。
ちなみにハトが「平和の象徴」と言うのは、旧約聖書のノアの箱舟に由来。
「平和の象徴」というと、ハトよりもおりづるをイメージするかな。
明日からいよいよ5月。