盆の花

8月16日(火)

咲いた 咲いた 盆の花

花は花でも、色とりどりの盆灯籠。

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今年もたくさんの盆灯籠が立てられた。

安芸の国の風物詩となったこの盆灯籠。
コンビニをはじめ、いたるところに並んでいる。

そのはじまりは、江戸時代。
亡くなった娘のために石灯籠を立ててやりたいと思った父親が、そのお金がなかったため、竹をそいで紙を貼り、それを灯籠として供えたことにはじまるといわれる。
(『浄土真宗 仏事あれこれ小百科 ―本願寺派安芸教区―』より)

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初盆は白い灯籠。
これも本来決まりはないが、いつの頃かそんな風に。

日本全国、その地方によってお盆の迎え方にはいろいろあるが、なかなか普段手を合わせることがなくなってきたこの時代に、せめてお盆・お彼岸、ご縁にあって欲しい。

お盆も今日で一段落。
盂蘭盆会法座が18日の夜席から。

それで今夜はもう一つの花が咲いた。

花火。

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夏といえば花火。
今年は震災の影響で関東を中心に花火大会が中止されたとか、被災地で復興を願って花火大会が行われたとか、花火が注目された。

ただ、この花火業界もなかなか厳しいらしい。
線香花火も中国製におされ、三河・北九州・信州といった線香花火の産地から一度は姿を消したそう。
それでも、再び復活。

そんな日本の花火を少しでも応援しようと、今年は国産線香花火をお取り寄せ。

値段の安さでは到底輸入品にはかなわないが、そこは職人の技。

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でも、子どもたちには線香花火よりも派手な花火の方が好まれる・・・。

また今度ゆっくりと楽しみたい。

戦没者追悼法要

8月15日(月)

今日は終戦記念日。

毎年この終戦記念日には、夜7時30分より入江神社境内の忠魂碑の前に御本尊を荘厳して、お隣の住蓮寺さんと追悼法要をおつとめする。

長浜・津久茂の日露戦争以来の戦没者追悼法要。
神社の境内で正信偈をみなさんとおつとめ。
追悼法要が終わると、盆踊り。

盆踊りは明日までの2日間。

祭に追悼法要に盆踊り。
これが長浜のお盆である。

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戦争といえば、平成18年(2006)6月、呉東組団体参拝で鹿児島のかくれ念仏を訪ねに行った時、最後に知覧特攻平和会館を訪れたことを思い出す。

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そこで案内してくださった方が、一通の手紙を紹介。

石川県七尾 石倉三郎さんの母から息子への手紙。

ばくだんをかかえてゆくときは、かならずわすれまいぞ。
南無阿弥陀仏をとなえておくれ。これが母のたのみである。
これをわすれないでいてくれたら母はこの世に心配ごとはない。
わすれないでとなえておくれ。
こんど合うときはアミダさまの所で合うではないか。
これがなによりの母のたのしみである。
わすれてはならないぞ。
てきかんめがけて飛んでいく時は、後生の一大事を心にかけて、「南無阿弥陀仏」とお念仏をもうしていけよ。

特攻機でお国のためにと尊いいのちを投げ出す決意の息子に対し、「無事、帰って来いよ」と口にすることの出来ない時代。
これが親として、精一杯のことばだったに違いない。

でも、この親子には「南無阿弥陀仏」があった。

今日は政府主催の全国戦没者追悼式があり、

戦争の犠牲となった約310万人の冥福を祈るとともに、東日本大震災からの復興を願った。

と新聞に紹介されている。
66回目の終戦記念日を迎えても、いまだに冥福を祈る・・・。

66回目の終戦記念日にふと思う。

長浜 夏祭

8月14日(日)

お盆のまっただ中。

一日汗だくの法衣を着て、あちこちと。
衣も素材がいろいろと改良されてはいるが、この暑さには・・・。
熱中症にかからないよう、体調には気をつけて。

今夜は長浜、西脇神社の夏祭。

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昔に比べたらかなり規模は小さくなったが、

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神社までの海辺の道には提灯が灯り・・・

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ライトアップされた大漁旗も。

太鼓の音が響き、帰省中の人たちで、結構賑やかに。

海で灯籠流しも行われ、昔から続く長浜のお盆の光景。

2011年8月14日 | カテゴリー : 地域 | 投稿者 : sentoku

煎茶会

8月6日(土)

8月6日午前8時15分。

昭和20年、広島に原爆が落とされ、たくさんの方が亡くなり、たくさんの方がその後大きな苦しみとともに生きた。
毎年この時間に合わせ、専徳寺では梵鐘を鳴らす。
梵鐘を鳴らし、そのあと本堂でおつとめ。

私は戦争を知らない世代だが、毎年この時間、この鐘の音を聞き、おつとめしているので、8月6日が染みついている。

今年は専徳寺門徒Hさんが施主となり、煎茶会が開かれた。

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原爆で当時7歳の兄を亡くしているが、戦後生まれのHさんに御両親はそのときのことを話すことがなかったそう。それだけ大きな悲しみ、大きな苦しみを抱えたまま、お浄土までもっていかれたのでしょう。
ただ、そのまま消してしまってはならないという思いが、このたびの献茶という形に。

朝9時、蝉時雨のなか追悼法要をおこない、煎茶道三癸亭賣茶流のお手前で献香・献供・献茶をご仏前に。

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そのあと、煎茶会に招かれた有縁の方、地域の方に煎茶が施される。

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たくさんの方がこのご縁にあわれた。

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専徳寺では初めての試み。
今年はいろんなカタチのご縁をいただく。

今夜は広島で53年ぶりのプロ野球公式戦も行われる。

これには賛否両論あるようだが、試合前にセレモニーが行われ、鳴り物を使った応援をやめるとのこと。

時代とともに伝え方、伝わり方も変わっていく。
かたちは変わっても、そこに流れるこころはひとつ。

そのこころをたいせつに。

2011年8月6日 | カテゴリー : 地域, 行事 | 投稿者 : sentoku

石泉文庫虫干し法座 4日目

7月16日(土)

朝席で石泉文庫虫干し法座が御満座。

このたびは、御講師に安登の浄念寺 安達高明御住職を迎えて、「仏教とは?」をテーマにいろいろと聞かせていただいた。

そのなかで、「聴聞」の話もされた。

「聴聞」

親鸞聖人は『顕真実教行証文類』(教行信証)の「行文類」に『平等覚経』を引用され、

宿世のとき仏を見たてまつれるもの、楽(この)んで世尊の今日を聴聞せん。人の命まれに得べし。仏、世にましませどもはなはだ値(もうあ)ひがたし。信慧ありて到るべからず。もし聞見せば精進して求めよ。

の「聴聞」の左側に「ユルサレテキク」「シンジテキク」と左訓(意味)を施されている。
聴聞とは、聞いて信じるのではなく、信じて聞く。聞いて信じて許されるのではなく、許されて聞く。私が中心、私が先ではないのだ。だから、「お聞かせいただく」のである。

朝席が終わり、石泉文庫へ本を返す。

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石泉文庫までの道は細い。
細いから人の手で運ばねばならない。

多い人で何往復していただいたのだろう。

ノウゼンカズラが青空に映える。
お手伝い、ありがとうございました。

石泉文庫虫干し法座 3日目

7月15日(金)

石泉文庫虫干し法座3日目。

今日も青空の下、朝席が終わると残りの半分を虫干し。

石泉文庫の虫干しは、毎年すべての本を出して虫干ししているのでなく、文庫内のほぼ半分の蔵書を隔年で干す。
来年は文庫内に残っている方の本を。
そう思うと、大変な数である。
でも、中身は読めなくても、手にされる方、それぞれにいろんなご縁が生まれている。

今年もおかげさまで無事干すことが出来た。

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明日の朝席が終わったら、これをみんなで石泉文庫へお返しする。

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今、本堂の廊下から満開のノウゼンカズラが見える。
石泉文庫にも咲いている。

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ノウゼンカズラ、漢字で書くと「凌霄花」。

この花は平安時代に中国から渡ってきたのだそう。
中国名が「凌霄花(りょうしょうか)」。
それを日本で「ノウセウ」と読んだのが訛って「ノウセン」となったとか。

霄は「空」とか「雲」の意味があって、「空を凌ぐ」。空に向かって高く咲く花の姿を表した名前なのだそう。

文字通り、青空のなかによく映えている。

法座も明日の朝席で御満座。
明日もお誘いあわせてお参りを。

石泉文庫虫干し法座 2日目

7月14日(木)

青空の下、石泉文庫虫干し法座2日目。

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本堂に張られたロープの下でのお聴聞。
この朝席が終わった後、石泉文庫から専徳寺の本堂まで蔵書を運ぶ。
今年も長浜小学校6年生が地域学習として手伝ってくれた。

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運ばれた本は、ロープに干されていく。
本堂いっぱいに干された本はいつもながら圧巻だ。

干す作業が一段落付いたところで、手伝ってくれた小学生にPowerPointで用意した資料を見せながら、石泉文庫の話をする。
手伝ってくださった方も一緒に。

干されている本で、一番多いのは黄檗一切経。
この「経」について話をした。

「経」とは、古代インドのことばで「スートラ」。
それを音写したのが「修多羅」。
そして、漢訳したのが「経」である。

「経」とは、たていと。
地球儀の縦と横の線。横の線が緯度、縦の線が経度を表すように。
どうして、その「たていと」か?

お釈迦さまが亡くなられ、その後、お釈迦さまの話をずっと側で聞いていた弟子たちが集まって文字に現した。

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当時、紙のなかったインドでは「貝多羅葉(貝葉)」と呼ばれる椰子の葉に記した。
そして、それに穴を開け、そこに糸を通してきれいに束ねた。
それが「たていと」と呼ばれる由来だそう。

数枚のスリランカの貝葉経を見せながらこの話をした。

「修多羅」。
実はこのことば、日常の会話にも使われている。

「ふしだら」「だらしない」

このことばは、きちんとしていないという意味で、「不修多羅」が訛って生まれた言葉といわれている。

お経はお弟子さんたちがきちんと整理し、糸で束ねてまとめた。
それに対しての「不修多羅(ふしだら)」。
私たちが使っていることばにはそんなことばがいくつもある。

そして、「虫干し」の話。

本を食べて穴を開ける虫は「シミ」と呼ばれる虫。

逃るなり 紙魚(しみ)の中にも 親よ子よ (一茶)

浄土真宗の教えに生きた小林一茶の俳句である。
「紙魚」と書いて「シミ」。
英語では、Silverfish。「銀の魚」と呼ばれる。

虫干しをして、このシミから本を守るわけだが、そのシミにも命があり、親子の関係がある。それを表現した一茶のことば。

小学6年生の児童も、和紙の軽さを体験し、たくさんの本の下でいろんなことを感じたと思う。

200年近く守られてきた地域の宝。
それを今日は守る力となった。

午後3時から干された本を片付けて、またもう一日残りの半分を干す。

暑いなか、ご苦労さまです。

石泉文庫虫干し法座 1日目

7月13日(水)

今夜から石泉文庫の虫干し法座。

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昨年は連日大雨警報も出たりして、最終日まで虫干しできなかった。
土砂崩れが起きたところもあり、夜席を1席休みとさせていただいた。

今年は早々と梅雨明けし、雨の心配はなさそうだ。
それでも、この暑さ。
電力不足に、水不足も心配されるところ。
熱中症にはお互い注意しましょう。

午後から、仏教壮年会の皆さんにご協力いただいて、虫干しのための準備。

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本堂に仮設の柱を設け、そこに太い竹を一本渡す。そして、本堂の両側からロープをピンと張る。
このロープがピンと張れていないと、本を干す時に重さでだらりと垂れてしまう。
力のいる作業である。

準備も整い、夜から法座。
御講師は安登の浄念寺 安達高明御住職。

仏とは?
迷ったと気づいた時に、正しい道を知ることが出来るという話を聞かせていただいた。

明日の朝席が終わったら、石泉文庫から蔵書を本堂へ運び、2日間干す。

長浜小学校6年生が、明日は地域学習として本を運ぶのを手伝ってくれる。
実際に江戸時代の本を手にして何かを感じて欲しい。
江戸時代からずっと地域の方々によって守られてきているそのつながりを感じて欲しい。
そして、そのなかに自分がいることも。

明日も良いご縁となりますように。

足跡

7月8日(金)

今朝は雨も上がり、日が差してきた。

昨日雨が降ったため、お墓参りが今日に順延。

専徳寺の墓地は山の上。
細い墓参道をバイクで登る。

雨でぬかるんだ土の上にいくつかの足跡が。
よく見ると・・・。

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これは蹄があるからイノシシかな?

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こちらは爪痕がしっかりと残っているからタヌキ?

昨年10月末に初めて専徳寺の境内でタヌキの夫婦を見かけた。
しばらく居着いていたのだろうけど、いつの間にか糞も消え・・・。

イノシシの害もあったりと、このあたりの農作物を作ってる方にとっては悩みの種。
それでも、彼らも懸命に生きている。

ぼくらはみんな生きている
生きているから歌うんだ。

ではじまる『手のひらを太陽に』。
この歌の作詞はアンパンマンの作者 やなせたかし氏。

みんな みんな 生きているんだ 友達なんだ。

とはいえ、なかなか友達にはなれない。
でも、お互いのいのちを感じるのは大切なこと。

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これは安芸教区・備後教区・山口教区・山陰教区で構成される中国ブロックが、750回大遠忌の記念事業のテーマに掲げたことば。

いのちのつながりを大切に

足跡ひとつから“いのち”を感じることができる。
これもまたご縁である。

細い参道をそろりそろりとバイクで降り、

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今夜は仏教壮年会。

2011年7月8日 | カテゴリー : 地域 | 投稿者 : sentoku

蘇鉄

7月5日(火)

蘇鉄」と書いて「ソテツ」と読む。

蓮の花が散り、今度は蘇鉄の新しい葉がニョキニョキと伸びてきた。

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蘇鉄は、鉄を与えると元気になるといい、幹に釘を打ったりするのだそう。
鉄によって蘇る。それが「蘇鉄」の名の由来。

専徳寺には古くから蘇鉄があり、広市民センター前にあるのも専徳寺の蘇鉄。

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明治42年(1909)、広村公会堂が現在の広小学校付近に建てられた記念に、専徳寺の雄株を移植したもの。
3度の移植で現在の広市民センターに至り、昭和47年には呉市の天然記念物に指定された。

現在、この広は呉市だが、昔は賀茂郡広村。
全国の模範村として、当時全国にその名を知らしめた。

宗教を以て人心薫化の中心となす

これが広村の村是にあったそうだ。
浄土真宗のご法義が村の中心にあった時代。
この蘇鉄はその名残である。

今は政教分離、信教の自由・・・など、当時とは状況が異なるので、昔のようにはいかないが、こんな時代もあったということを、蘇鉄とともに知って欲しい。

2011年7月5日 | カテゴリー : 地域 | 投稿者 : sentoku