専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
TEL.0823-71-7926
〒737-0136 広島県呉市広長浜3-13-21
4月13日(土)
朝5時33分頃、淡路島を震源とする震度6弱の地震。
呉市も震度3。
それでも、何も気づかず夢のなか・・・。
8時30分より住蓮寺にて、長浜日曜学校の入校式と花まつり。
今年は新1年生2名が入校。
甘茶とは、「甘露」。ヒンドゥー教の“アムリタ”に由来する。
アンコールワットにレリーフとして残る『乳海撹拌』が有名だ。
「アムリタ」とは、本来“不死”を意味するそうだが、死なないというよりも、“生きる”と味わう方がしっくりくるだろうか。
すべての「いのち」にありがとう
お釈迦さまの誕生により、私たちは「ありがとう」を学んだ。
大海の海底に目の見えない一匹の亀がいた。
その亀は100年に一度だけ、海面に顔を出すのだそうだ。あるとき、真ん中に穴の開いた一本の枯れ木が浮かび、漂っていた。
その大海に浮かぶ枯れ木の穴から、その目の見えない亀が顔を出す可能性が果たしてあるだろうか?と、お釈迦さまが弟子に尋ねた。
弟子は、絶対とはいえないが、それはあり得ないと答えた。
お釈迦さまは、おっしゃられた。
この亀が枯れ木の穴から顔を出すことよりも、この世に人間として生まれると言うことはもっと有り難いことなんですよ。
と。 (盲亀浮木のたとえ)
お釈迦さまの誕生を祝って甘露の雨が降った。
「生きる」雨だ。
生まれてきたとってもありがたい“いのち”を祝福して。
お釈迦さまの誕生も尊く、この世に生まれてきたものすべてが尊い。
生まれてきたことに「ありがとう」。
チロルチョコを食べて、その包み紙をマグネットに。
そのマグネットを見るたびに、「いのち」「ありがとう」をフッとこころに。
4月8日(月)
今日は広南小学校入学式。
昨日までの春の嵐で、少し桜は散り気味だが、青天のもと新1年生、入学おめでとう。
先日痛めた喉も、2日間休養して本調子ではないものの、声が戻ってきた。
今夜は仏教壮年会の総会。
そして、今日4月8日はお釈迦さまの誕生日。
仏壮会員の方に誕生仏のパッケージに包まれたチョコとマグネットのセットをプレゼント。
花まつりには甘茶をかけてお祝いするが、この甘茶はお釈迦さまが誕生されたことを天の龍が祝って降らせた「甘露」の雨に由来する。
「甘露」、古代インドのことばで“アムリタ”。
今日は「いのち」の大切さをお示しいただいたお釈迦さまの誕生日。
ただ、「おめでとう」と祝うのではなく、「ありがとう」と感謝。
全日本仏教会の花まつりポスターには、
すべての「いのち」にありがとう
と。
今年度もいろいろとお世話になります。
3月31日(日)
法座の翌日からお経を読む声が出なくなった。
お葬式で、特に三奉請という高い音階はまったく。
お葬式と法事とお通夜、出ない声を出そうとすると、いらない力が入る。
翌日、からだの至る所が筋肉痛。
お経を読んで筋肉痛になったのは初めての経験。
普通に声が出るって有り難い。
連日、法務の連続で、声を休ませることが出来ないため、ずっとひどい声での読経。
今日も法事が10時、11時、12時、13時、14時と。
今日は広南学園(広南中学校体育館)で、広島交響楽団「ふるさと」シンフォニーが開催されたのだが、それには行けず仕舞い。
音楽の芽プロジェクト ~ あなたの街のオーケストラ 広響 ~
広島交響楽団が、ビジョンのひとつに掲げる「地域社会貢献事業」。
オーケストラに普段なじみのない子どもたちや地域の方々のもとへ積極的に出かけ、地域の音楽文化振興を図っています。
このプロジェクトの第1回目に選ばれたのが広南学園。
最後に(旧)長浜小学校校歌・(旧)小坪小学校校歌・広南小・中学校校歌の演奏もあったそうで、小学校で参加した長男は、間近で聞いた約60名のオーケストラの演奏を、からだで感じたそう。
今夜は、安登の浄念寺にて法中会。
いろいろと確認事項。
そして、6月の団体参拝の申込状況について。
120名の定員のところ、現在70名。
専徳寺からは住職を含め12名の参加申込。
〆切は過ぎてもしばらく申込を受け付けるそう。
そして、今度4月8日の仏教壮年会や、日曜学校の入校式に配る予定のチョコ。

誕生仏のチョコとマグネットのセットをラッピングして、法中会で皆さんにお裾分け。
ラッピングの図柄は全日本仏教会の花まつりポスターを。
幼稚園とかいろいろと使い道はありそうなので、そこからご縁が広がれば。
3月26日(火)
法座の朝席が終わり、ホッと一息・・・。
とはいかない。
法事が2件と葬式が2件。
さすがに喉がかすれてきた。
今夜は阿賀の称名寺にて我聞会の3月例会。
輪読の担当者が風邪で欠席。
今、風邪が流行っているようで、昨日の小学校の送別式もみんなマスク着用だった。
というわけで、輪読は次回に持ち越し、法話のみ。
今日紹介していただいた法話は、ラジオの本願寺の時間で2004年11月第4週に放送された酒井淳昭布教使の『安心ある世界 』。
浄土真宗のお寺の御住職で長く小学校の先生をされた東井義雄先生が「昔のお母さんは、風呂敷包みであったが、最近のお母さんはトランク」だとおっしゃった。風呂敷というのは、丸いスイカであろうが、細長い一升瓶であろうが、どんな形でも包めます。しかし、トランクは同じ容積でもその形に合わないと物を入れることは出来ません。ですから、入れようと思うと、その形に物を合わせなければならないのです。・・・
自分はトランクになっていないか?と、それぞれに確認するご縁をいただいた。
3月26日(火)
今日の朝席で春季彼岸会も御満座。
今日は『歎異抄』の踊躍歓喜のこころが起きないという唯円房の問いの話。
そのなかで、「死に方」についてのお話を聞かせていただいた。
今はあんまりこんな表現を用いないかも知れないが、「畳の上で死にたい」ということばをよく聞いた。
それから、「あんな人、ろくな死に方をしない!」ということばも。
「死に方」というのがよく問われるが、浄土真宗では死に方は問わない。
臨終が大切なのではなく、今(平生)。
仙厓和尚の辞世のことばは「死にとうない」であったと。
『歎異抄』に、
なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。
この“いのち”が愛おしいと思う気持ちがあるから、「名残惜しく」いそぎ浄土に参りたいという気持ちが湧いてこない。
ただ、浄土があるからこそ、いつ、どこで、どんなかたちで“いのち”尽きたとしても、この“いのち”を生き抜くことができるのではなかろうか。
彼岸とは遠い彼方ではなく、今を生きて向かっている方向に。
生きているいのちを大切に。
ようこそのお参りでした。