専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
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9月29日(木)
今日は16時よりクレイトンベイホテルにて、大田利生先生勧学昇階祝賀会が開かれた。
安芸南組主催の祝賀会。
勧学とは、浄土真宗本願寺派の学階制度の最高位で、現在この安芸教区では霊山勝海和上に次いでの勧学である。
大田先生とは、今から20年ほど前の大学院時代、浅野教信先生(勧学)のゼミ生を中心とした『浄土教思想研究会』の旅行で、タイ旅行へとご一緒させていただいた。
タイのチェンマイからバンコクまでを陸路バスで移動した旅。
行った時期が8月だったので、毎日スコール。
チェンマイで少数民族の村へ行く予定だったが、途中スコールに遭い、道が悪いので希望者のみ行こうということになった。
そこへ向かうための車を待っていると、到着したのは何と幌つきのトラック。
その幌つきトラックの荷台に乗り込んだ希望者は、浅野教信先生と川添泰信先生(司教)、そして大田先生と先輩のK氏と私の5人だけ。
未舗装の悪路を揺られながら行ったのを思い出す。
祝賀会の後、講演を聞かせていただいた。
そのなかで、
対話とは、聞くということからはじまる
という言葉が印象に残った。
今夜は勧学寮頭 普賢晃壽和上にも久しぶりにもお目にかかり、いろんなことを思い出させていただいた。
9月25日(日)
今夜は阿賀の称名寺にて呉東組若手僧侶の勉強会『我聞会』の例会に。
輪読は、『蓮如上人御一代記聞書』(109)(110)。
(109)は、本願寺の現代語版と、他の『聞書』の注釈書の訳し方がまったく違うという。
現代語版にもそのあたりのことが註に書かれているのだが、他の書の訳し方から見ると、蓮悟という人物はどんな人物であったのだろうか。と、そんな話で盛り上がる。
法話は、「自分が願われている」という話を聞かせていただく。
東井義雄(とういよしお)先生のお年玉の話から、親から願われていることに気づかされたという話。
この話を聞かせていただきながら、大晦日に行った『安穏のともしび』のこと、「願」バッジのことがふっと頭に浮かんだ。
願われていることに気づくご縁。
とても大切なご縁である。
この話を聞いて、早速帰宅してAmazonで検索。
「いのち」の教え
在庫が「残り1冊」となっていたので、迷わず購入。
秋の夜長。読書の秋となるだろうか。
その秋の夜長で、ふと思い出した。
我聞会からの帰り、専徳寺までの道筋を車で走っていると、溝に降りて逃げる焦げ茶色の後ろ姿。
どうも、あれはタヌキ。
昨年は10月末に大きなタヌキの夫婦が境内を走り去るところを見かけた。
そして、時々糞があったが、いつの間にか消えて。
今日のは少し小ぶりだったので、その子だろうか?
専徳寺も月夜に誘われタヌキがそろそろ出てくるようになるかな?
ちなみに、童謡『証誠寺の狸ばやし』で知られる証誠寺(千葉県木更津)も、浄土真宗本願寺派のお寺である。
9月25日(日)
今朝の席で秋季彼岸会も御満座。
今朝は大江淳誠和上の六字釈の味わいを。
これは、蒲刈の御門徒さんが亡くなったおじいさんの遺品を整理していたら、大江淳誠和上の六字釈の講義を筆記したものが出てきたそう。
それを百ヶ日の法事のとき、「茶の子」にしてお配りした。
「茶の子」とは、法事の際の供物や、参拝者に対しての配りもの。
「粗供養」という地方もあるようだが、このあたりでは「茶の子」が一般的。
もともとはお茶に添えるちょっとしたお菓子をいったのであろうが、それがちょっとしたものという意味で、来ていただいた方にお礼を込めて「茶の子」としてお渡しするように。
そこから生まれたことばが、「お茶の子さいさい」。
ちょっとしたものであっても、時にはそれが大きなご縁に。
次回の法座は10月の報恩講法要。
お誘いあわせてお参りを。
9月24日(土)
今日も秋晴れのもと、秋季彼岸会2日目。
お昼の席で、姥捨て山の話をされ、
奥山に 枝折るしおりは 誰がためぞ
親を捨てんと いそぐ子のため
の歌を紹介された。
この話は、真宗大谷派の僧 近角常観氏が日本を訪れたアインシュタインの
仏さまとはどんなお方ですか?
という問いかけに対して、この姥捨て山の話をされたそう。
《参考》光明寺ホームページ
明日の朝席が御満座。
お誘いあわせておまいりを。
9月23日(金)
今日はお彼岸の中日。
今夜から秋季彼岸会の法座。
天上の扇風機もとまり、涼しい風に、虫の声。
御講師は、蒲刈の浄泉寺 東元孝昭氏。
明後日の朝席まで。
連休中、お誘いあわせてお参りを。
おかげさん
先日、『おかげさま』という絵本を紹介した。
その『おかげさま』と一緒に注文していた『おかげさん』という本がやっと届いた。
実はこの本。
どじょう内閣として有名になった野田総理の引用した相田みつを氏のことばが載っている。
このことばを聞いたとき、金子みすゞさんの有名な「私と小鳥とすずと」がふっと頭に浮かんだ。
ちょっと興味もあって注文したのだが、売り切れ。このたび増版されたものがやっと届く。
どじょうがさ
金魚のまねすることねんだよなあ
の詩は、この本では「みんなほんもの」というタイトルで紹介されている。
お釈迦さまは悟りを開かれた時に、この世に存在しているものは、すべて真理そのもの(一切衆生悉有仏性)としてあるものだ、と説かれております。山も川も、草も木も、河原の石ころ一ツそれぞれにほんもの(諸法実相)としてあるのだ、といわれているのです。つまり、仏さまの眼から見ると、にせものなしということです。
どじょうはどじょうとしてほんもの、金魚は金魚としてほんもの。どじょうが金魚のまねをした時、にせものになるんです。
あなたがあなたであるかぎりほんもの、わたしがわたしであるかぎりほんもの。ほんものより、にせもののほうがカッコいい、と錯覚して、一生をダメにしてしまう人間が多いのではないか、と私は思います。
相田みつを氏は、曹洞宗の禅僧 故武井哲応に師事して仏法を学んだそうだが、この『おかげさん』のなか、「卑屈と傲慢」と、「みんなほんもの」の次に出てくる「にせもの」の二つに親鸞聖人が登場する。
ドジョウの泥臭さばかりが強調されているが、ドジョウはエサを食べるとき、掃除機が何でも吸い取るかのように砂利も一緒に吸い込んで、エラから上手に砂利だけ捨て去る。
除雪車のようにエラから砂利が吹き出てくるのを初めて見たとき、衝撃的だった。
何でも最初から選り好みしないで、まずはすべてを受け入れて、上手に良いところだけを取っていく。ドジョウから学んだことである。