2月19日(火)
今日は灰ヶ峰が雪化粧するほど寒い一日。
今夜は阿賀の西光寺にて我聞会の例会。
『蓮如上人御一代記聞書』(138)(139)の輪読。
(138)では、仏・神に馴れてしまうと横着になり、粗雑になるということを戒めるおことば。
「馴れ」と「慣れ」
「馴れ」と「慣れ」は少し意味が異なる。
人間、「慣れ」がなければ生きてはいけない。
過去の経験から未来を予測して今を生きている。
ただ、今まで元気だから、明日も明後日も1ヶ月後も1年後も10年後も恐らく大丈夫。
そう思って、いろいろと予定を立てている。
「慣れ」なければ生きていけないが、生きているのに「馴れ」てしまうと、いのちをありがたく感じなくなってしまう。
生きているのが当たり前。
ではなく、当たり前のように生きている、生かされていると気づくことが大切なのかと。
そんなことを感じさせていただいた。
それから、法話では「泣いた赤鬼」を題材に聞かせていただく。
「泣いた赤鬼」
幼少の頃、昨年取り壊されてしまった呉市民会館で、藤城清治氏の影絵劇『泣いた赤鬼』を観に連れて行ってもらったのを思い出す。
赤鬼の願いを知り、赤鬼のために悪者となった青鬼。
そんな青鬼の姿に阿弥陀さまを重ねて話をされたが、それについて後ほど「青鬼=阿弥陀如来」は少し違うのでは?と指摘が。
赤鬼の願いがあって、それに対して青鬼が願いをかなえた。
でも、阿弥陀さまの願いは、凡夫の願いよりも先・・・と。
なるほど・・・とは聞かせていただくが、阿弥陀さまの願いは、不可称・不可説・不可思議といいながら、私たちのはからいの世界でしか語ることが出来ない。
それが出来ないということに気づかせていただくのも、大切なご縁なのかな。