1月1日(火)
新年あけましておめでとうございます。
“なもあみだぶつ”に包まれて 世のなか安穏なれ 仏法ひろまれ
除夜会から数時間、一眠りして朝を迎え、9時から元旦会。
今年も正信偈をおつとめした後、本願寺にならって御開山親鸞聖人の『教行信証』総序の御文を拝読。
元旦会リーフレットに総序の御文、昨夜の除夜会の写真、そして今年は「私たちのちかい」を載せて。
本堂でのおつとめが終わり、庫裏のお内仏でおつとめをしている間に、総代さん方が昨日の除夜会の竹灯籠やキャンドルを早々に片付けてくださった。
お世話になりました。
終わって数名境内に残っておられたので、お礼を伝えようと外に出ると、「石泉」「黙霖」「順道」と、次々と郷土史談義に花が咲いて。
昨夜の除夜会は、青・黄・赤・白の蓮の花が親鸞聖人の足元に。
本堂の中では、お焼香をして阿弥陀さまに新年のごあいさつ。
小さなお子さんが、自分のお財布から一生懸命お金を取り出して焼香している姿、親のマネしながら手を合わす姿に思わずニッコリ。
「正月」の「正」。
漢字の語源を調べてみると、「一」に「止める」と書いて「正」。
元々は、「一」は四角い城壁で囲まれた都市、「止」は足跡を表しているそう。
城に向かって歩を進める姿が「正」の成り立ちだそうで、城に攻め込んで、その都市を治める姿が正義、「征服」の「征」にもつながる言葉だったみたい。
「正義は勝つ」というよりも、「勝ったものが正義」というのが「正」の本来の意味だったらしい。
そんなことを聞いて、ふと次の言葉を。
「世間虚仮 唯仏是真」(天寿国繍帳)
「よろずのこと、みなもって、そらごとたわごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておわします。」(歎異抄)
世間ごとの「ただしい」は、時や所によって変わってしまうってことかな。
また、調べてみると、こんなことも。
正月の《正》という字ね、字引で引くとすると「何ヘン」で引くと思いますか?
やさしい字だから改まって引いたことがないかな?
昔の漢和辞典ではね、「止」というヘンで引くんですよ。
《正》というのはね、「一に止る」ということです。
「一を守る」 それが正。
それでは一とは何でしょう?
一とは原点、一とは自分、一とはこのわたしです。
自分が人間としての原点に止まる、それが正。
自分が人間としての原点を守る、それが正。
自分が自分の原点に立ち帰る、それが正です。
そして、自分が自分の原点に立ち帰る月、それが正月。
つまり、自分が自分になる月、それが正月。
自分が自分になるということは、人間としての、本来の自分になること。
それでは本来の自分とは何か?
「そんとく」「勝ち負け」お金の「有る無し」等と比べることをやめた自分、それが本来の自分です。
子供のことで言うならば柿の落ち葉をみて「わァ、キレイ!」と感動し、その落ち葉を大事に拾ってきた子供の心、それが子供本来の心です。
感動することにお金は一銭もかかりません。
感動にそんとくはありません。
そんとくを離れた人間本来の自分に立ち帰る月、それが正月です。
ふだんの私たちの現実生活は、いつも「そんとく」「勝ち負け」という「比べっこ」に振り廻されているから、一年に一ぺん、そういう世間的な「比べっこ」をやめて本来の自分に帰ろうというのが正月です。
正月になると、寺によっては、「修正会(しゅしょうえ)」という行事をします。
「修正する会」と書きます。
何を修正するのでしょう?
昨年やってきたことあやまち、失敗を反省し、同じことをくり返さないように、自分の原点に立ち帰って、自分の生き方を軌道修正するんですね。
そして、自分のことばかりではなくて、世の中の平安や世界の人々の幸せを祈願するわけです。
つまり、正月とは、「そんとく」で歪められた自分の軌道修正をする月ともいえます。
(相田みつを 『一生感動一生青春』より)
「一」に止まる。
どうぞ、よいお正月を。