専徳寺門信徒会総代・世話係 総会

6月28日(火)

今日は午前10持から専徳寺門信徒会 総代・世話係総会。

改選期ではないので、今年度の退任者・新任者は各1名ずつ。

「いつもお世話になっております」のごあいさつより、今年の話題は石泉文庫のクロガネモチ。。。

そんな中、先日読み始めた『幸福は聞える声の中に』(信仰随筆・中川静村著)に、こんな一節を見つけたので、挨拶で少しだけ紹介。
折角なのでここでは全文を。

 困 る

 困るという字を、もう一度見直してもらいたい。 木は大自然が生んだ生命体である。誰の所有でもなかった。それを自分のものと誤認したのは人間の『妄想』であり、自己の所有として一つの箱にとじこめたのは、迷妄のなせる業であった。一本の木さえ自己の所有にしようとする人間の貪欲は、その貪欲の故に自らを困る地獄に堕したのである。他人の木がほしくなり、あらゆる木がほしくなり、果てしない欲望と独占がそこから生まれた。人間の『困る』原因は『我執がしゅう』がすべてである。自己中心にしかものが考えられず、どう理屈をつけ、どんなに美しいことをいっていても、その根本に『』をすて切れないところに、困る原因がはらんでいる。話し合おうといってみたところで、その話が『自分本位』ならどうにもなるまい。歩みよりどころか、互いのみにくさをさらけだすのが落ちである。名利みょうり愛欲あいよくすべて我執の煩悩である。親鸞はこの我執を血涙けつるいをもって『悲哉かなしきかな』と結んだ。 自己批判の極点に、身動きならぬ『自己本位』を発見し、その故に絶対他力による自己の粉砕を生涯の行とした親鸞は、人間としても見あげたものであろう。

 自己粉砕とは『無我』である。Aの中にBを見出し、Bの中にAを見る。 AB共にない融合と一如の世界を、親鸞は『真実』とよぶ。
 親の中に子を見、子の中に親をみる。 共に自分にとらわれず、相手の中に自分を生かそうとする。縁の領得には『困る』ところがない。一本の木を、共に所有しようというのである。 共有の緑を見直そうというのである。生きている自分でなく、生かされてある自分に気づく。一切とかかわりある生命に目ざめ、すべてのご恩によってここにある自己に合掌し感謝してゆく。相手の生命をわが生命と気づき、わが生命も相手の生命と仰ぐ世界が宗教の世界である。すべてが、絶対者である『仏』の生命の中に生かされていると考える。宗教の世界には対立も我執もなく、まして独占もない。

 木を一つの箱から、もとの大自然に返そうではないか。すると『困る』文字がこの世から消える。どういってみたところで、同じ人間であり、短いつかの間の生涯である。何一つ自分のものなどない。自分のものと考えるのは妄想であり、すべてが『あずかりもの』なのだ。 あずかりものを、めくじら立てて争ってみたところで、時がくれば、みんな返してしまわねばならぬ。何一つ残らないのが『死』である。必然の死を目の前にしている私たちが、偶然の名利愛欲にこだわっているのが大体おかしいのである。

 どうやらまた、国会の選挙が始まるらしい。 我執の一票に血みどろになり、空しい議席の争奪に自己をわすれる人も多かろう。ただ、大切な、国民の生命をあずかる本来の務めを忘れてもらっては困る。なにが一番大切なのか、かけがえのないものはなにか、ちょっと手をやすめ、一歩退いて、もう一度見直し考え直してみたい。老若男女、困っている本体が、案外つまらぬ原因ではないのか。もう一度、この文字をとくとごらん頂きたいと思う。

 

クロガネモチが倒れ、道を塞ぎ、隣家の屋根を崩壊。
そのあとで、この「木」の所有者は一体誰なのかと言う問題になった。

調べてみると、所有者は400名の昔の長浜の方。管理者は専徳寺。

県の史跡だから、このクロガネモチの樹もその一部となるのでは?とか、いろいろと話があっちに行ったりこっちに来たり。

『木』を誰のもの?と、『□』で囲んだ途端に、困った問題となった。

『□』で囲んで、こちらとあちらを分けてしまう。
そして、こちらが私、あちらは他者と。

これは「木」だけの問題でなく、いろんなところで聞く話。

〈愛着〉と〈執着〉。
そこはなかなか難しいけど、それに気づかせていただくのもまたご縁かな。

 

おかげさまで、滞りなく総会も終了。
暑い中をようこそお参りくださいました。

 

今日、中国地方は早くも梅雨明け。
セミの声も聞こえてくるように。

暑い夏になりそうなので、どうぞお気をつけて。