専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
TEL.0823-71-7926
〒737-0136 広島県呉市広長浜3-13-21
7月3日(土)
今日は広南中学校の参観日と広南寄席。
ただ、広南寄席は例年寄席前の授業参観だけで、寄席自体はいつも法事で観たことがない。。。
次男たち1年生は、中学に入ると最初にビブリオトークに取り組む。
生徒一人一人が違う本を読み、その本の紹介をしながら、何を学び、これからの自分にどう活かすかを、フリップを各自作って発表。
本はいろんな分野で活躍された方の自叙伝。
人の生き方にいろんなことを学んだみたい。
アクリル板越しに、マスクを外して発表する子どもたち。
1年以上ぶり?に素顔を見ると、みんな大人っぽく、しっかりした良い顔になってきたなぁと。
また、寺で用意しながらも使うことがなかったアクリル板。
久しぶりに見て、ここでちゃんと役に立っていることも嬉しいかぎり。
この後はジャンボ衣笠さん等の寄席を見て、落語の面白さに触れ、みんな秋に向けて落語を教わることに。
帰宅して、本堂での法事。
本堂に入るなり、「このまえは、読み聞かせに来てくださってありがとうございました」と可愛らしいお礼を言われた。
先月担当した2年生の男の子。
終わった後も、一人挨拶に来て、いろいろ喋ってくれ、「また来ます」と帰っていった。
「また来てね」
コロナ禍でも広南、みんなすくすくと。
7月1日(木)
今日から7月。
そして、今日は呉空襲の日。
いろいろと思いを馳せながら。。。
国立国会図書館デジタルコレクションの『現代名流自伝』第1編に、前田慧雲勧学が「子の受けたる境遇と感化」と題して書かれた中に、石泉僧叡和上のことを挙げられていたので紹介。
石泉僧叡の事蹟に感ず
それから二三年の後、父から仏学の談を聞くに就て、時々真宗の先哲の譚をして呉れた事があります。其の中に就て最も感じたのが、芸州の石泉僧叡といふ人のことで、父がそれを談すに就て、学問と云ふものは、此人の様な学問でないと真実な学問でない。此石泉師のは自身の心の底からして出た学問で、真の学問である。書物に書いてあるのを読んで覚えたり、口の上から聞き込んだ丈けのものでは、学問とは云へない。今日の学者は皆書物の上の事を受売したり、師匠の云ふた事を繰り返すに過ぎないので、真実の学者でない。真実の学者は、自分で一見識を立てて、自分の心から出したものでなけらねばならぬ。処が此僧叡と云ふ人は、自分の説が当時の学者に容れられず、本願寺からして糺問を受けたけれどもそれにも屈せず、安芸国の一田舎の長浜といふ処に隠居して、自ら学生を養うて、一生の間本山へは用ゐられずして終った。その僧叡の目から見ると、本山に用ゐられてゐる学者共は子供同様であって、初めから相手にしなかった位であると話されて、大に感動しました。成程、学問は書物に書いてある通りを其儘云ふてゐる様ではつまらぬ。どうしても一個の説を立てねばならぬといふ考が起りました。其後と云ふものは書物を見る度に、無理矢理にでも自説をこしらへて見やうと力めて、論語を読んだ時には『論語考』といふものを書いて、其草稿が何処やらに有りましたが、今見るといふと可笑しい事ばかりではあるが、斯う云ふ事が多少の見識をつけました。
学問とは、そのまま受け売りするのでなく、自身の心の底から出てくるもの。
いつの時代も、先人の言葉に学ぶべきことが。
ちなみに、前田慧雲勧学は、専徳寺に建つ大洲順道の頌徳碑を書いてくださっている。