専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
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〒737-0136 広島県呉市広長浜3-13-21
3月21日(木)
書店でふと目についた本。
手にとってパラパラめくると、目次の「安芸門徒の行事と食べもの」に目がとまり、早速購入。
安芸門徒のおたんや(お逮夜)の“煮ごめ”の話はよく聞くが、修正会(元旦)・おたんや・彼岸会・花祭り・お春座(春の永代経法要)・降誕会・安居会(泥落とし)・盂蘭盆会(歓喜会)・報恩講法座(秋の永代経法要)・総の報恩講・除夜法要(大晦日)と、年間の諸行事とそのときに用意される食べものが紹介されている。
また、一昔前の安芸門徒の婚礼、葬式の様子も紹介されていて、なかなか興味深い。
その他にも、沿岸部や山間部、各地方のいろんな風習や料理が。
思わず笑ってしまったのが、涅槃会(お釈迦さまのご命日)に用意される「お釈迦さんのはなくそ」。
旧暦2月15日は、お釈迦さまの命日「涅槃会」である。この日は「お釈迦さんのはなくそ」または「おいりはなくそ」と呼ぶ菓子をつくって仏前に供え、子どもたちに配る風習がある。名前を聞いただけでは何か見当もつかないが、米や豆を炒ってあめをからませたお菓子で、子どもたちは楽しみに待っている。まことにひょうきんで、安芸門徒の人たちの仏さまへの親しみが感じられる呼び名である。
とあるのを読んで、なるほどと。
また、今ちょうど彼岸中であるが、府中地方では、「親が養う春のお彼岸」「親を養う秋のお彼岸」といって、春の彼岸には実家から嫁ぎ先へおはぎが届けられ、秋の彼岸には反対に実家へおはぎを贈る慣わしがあると紹介。
毎日の生活にかかすことのできない食事。
そのなかに浄土真宗の教えが。
親鸞聖人の師匠法然聖人のことば、
衣食住の三は、念仏の助業也。(和語灯録)
生活の中心にお念仏。
家庭の中で受け継がれることを願う。
3月20日(水)
お彼岸の中日は雨。
長浜から広交差点へと向かう途中にある、しだれ桜が一気に花を咲かせる。
近所のソメイヨシノもだんだんと蕾が膨らんできた。
今日、印刷を頼んでおいた寺報が届いた。
これまで春の永代経法要と秋の報恩講法要の前に、法座の案内を総代・世話係のみなさんに配っていただいていたが、それをこのたび改めて、寺報として春と秋に配っていただくことに。
タイトルは『専徳寺報 念佛日和(ねんぶつびより)』。
「日和」とは、洗濯日和・行楽日和と使われるように、洗濯するのにちょうどよい、出かけるのにちょうどよいと、「○○するのにちょうどよい」という意味で使われる。
そこで、今日のような雨の日だろうが、晴れの日だろうが、楽しい日だろうが、悲しい日だろうが、毎日が「念仏するのにちょうどよい日」。
そんな思いをこめて、「念佛日和」。
仕分けをして、近々世話係の方からお届けに。
3月13日(水)
今日は雨のなか、宗学院に通っている組内寺院の御住職が、学友と一緒に石泉文庫の見学に。
専徳寺で少し石泉和上の話をした後、石泉文庫へご案内。
文庫のなかは照明がないので、こんな日は真っ暗。
懐中電灯を使ってお聖教を手に取る。
宗学院で講録(親鸞聖人の著作に関する講義の記録)を学ぶ方々にとって、ここは知識の宝庫。
今の時代、どんどん便利になり、こうした講録が収まった『真宗全書』も、国会図書館ホームページ近代デジタルライブラリーで閲覧出来るようになったが、それでもまだまだ文庫のなかに眠ったものも存在する。
20数年前に大学の卒業論文を書いた頃、貴重書のためコピーが出来ず、また今のようなデジカメもなく、卒業論文を書くための資料集めに石泉文庫の本を2日で3冊ほど書き写したら、夕飯の茶碗が持てなくなった。(※字は右手で書くが、箸は左手で持つため。)
それで、ワープロを購入することに。
そんなことを思い出す。
不便さを知っているから、便利だと感じ、ありがたいと感じる。
時には不便なこうした昔ながらの場所へやって来るのもよろしいかと。
3月11日(月)
午後1時30分より、阿賀の宝徳寺にて呉東組聞名講の3月例会。
3月例会は、この一年間に亡くなられた講員の御遺族にも案内して、追悼法要が営まれる。
そして、東日本大震災でお亡くなりになられた方の三回忌法要もあわせて行われる。
呉東組法中、聞名講の揃いの色衣・五条を着けて、『阿弥陀経』のおつとめ。
聞名講宛の消息拝読の後、ご法話は善通寺住職。
東日本大震災の地震発生時刻、14時46分には梵鐘が鳴らされる。
引き続いての御示談では、3つの質問をいただいた。
一つ目は前回時間の都合で出来ず、宿題としていた質問。
浄土真宗では、おなぐさめの言葉にどのような言葉をかけたらよいのか、見つからないので、教えていただきたい。
という質問。
ご門徒のなかから、私は亡くなったおばあさんから、「かけることばもありません」というものだと教わったと意見が出る。
それを受けて法中から、『白骨の御文章』の
野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
の御文があげられた。
「おろかなり」とは、言葉では表し尽くせないとの意。
これという決まった言葉はないが、相手を思いやってこころを寄せることが大切かと。
二つ目は、以前にも出た「生前」の意味。
その後、ある御講師より、「生前」を存命中とするのは、往生する前という意味で、浄土真宗だからこそ使える言葉なのだと聞いたと。
それに対して法中から、「前」というのは過去だけでなく、これから先(未来)を指す意味で使われていて、ご法義を味わうなかで、「往生する前」と捉えるのがよろしいと。
三つ目は、退職して法座に参るようになり、良いお話を聞かせていただけると、他の方を誘うのだが、「まだ私には早い」と言われてしまう。どうしたものかと。
いくつになっても、「まだ・・・」と言う話はいろんなところで聞く。
浄土真宗の教えは、亡くなった後の話ではなく、今を生き抜く話だとまとめられた。
今こうして生きている私のいのちを見つめさせていただく大切なご縁をいただいた。