3月11日(月)
午後1時30分より、阿賀の宝徳寺にて呉東組聞名講の3月例会。
3月例会は、この一年間に亡くなられた講員の御遺族にも案内して、追悼法要が営まれる。
そして、東日本大震災でお亡くなりになられた方の三回忌法要もあわせて行われる。
呉東組法中、聞名講の揃いの色衣・五条を着けて、『阿弥陀経』のおつとめ。
聞名講宛の消息拝読の後、ご法話は善通寺住職。
東日本大震災の地震発生時刻、14時46分には梵鐘が鳴らされる。
引き続いての御示談では、3つの質問をいただいた。
一つ目は前回時間の都合で出来ず、宿題としていた質問。
浄土真宗では、おなぐさめの言葉にどのような言葉をかけたらよいのか、見つからないので、教えていただきたい。
という質問。
ご門徒のなかから、私は亡くなったおばあさんから、「かけることばもありません」というものだと教わったと意見が出る。
それを受けて法中から、『白骨の御文章』の
野外におくりて夜半の煙となしはてぬれば、ただ白骨のみぞのこれり。あはれといふもなかなかおろかなり。
の御文があげられた。
「おろかなり」とは、言葉では表し尽くせないとの意。
これという決まった言葉はないが、相手を思いやってこころを寄せることが大切かと。
二つ目は、以前にも出た「生前」の意味。
その後、ある御講師より、「生前」を存命中とするのは、往生する前という意味で、浄土真宗だからこそ使える言葉なのだと聞いたと。
それに対して法中から、「前」というのは過去だけでなく、これから先(未来)を指す意味で使われていて、ご法義を味わうなかで、「往生する前」と捉えるのがよろしいと。
三つ目は、退職して法座に参るようになり、良いお話を聞かせていただけると、他の方を誘うのだが、「まだ私には早い」と言われてしまう。どうしたものかと。
いくつになっても、「まだ・・・」と言う話はいろんなところで聞く。
浄土真宗の教えは、亡くなった後の話ではなく、今を生き抜く話だとまとめられた。
今こうして生きている私のいのちを見つめさせていただく大切なご縁をいただいた。