専徳寺のぶろぐです。
お寺のこと、地域のことを綴ります。
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7月5日(木)
一昨日まで、今日の予定が入ってなかったので、10時から次男 蓮の幼稚園へ参観日に行くことにしていた。
それが、一昨日の7月3日、呉東組浄徳寺の前々坊守さんがお亡くなりになられ、昨夜が通夜、そして今日の11時に葬式が。
10時30分に集合とのこと。それで、10時から20分ほど参観することに。
これまで2回の参観日では、ずっと大泣きだったのに、今日はみんなのなかに座り、七夕飾りを作っている。
帰る前に「おとうさん、お参りに行ってくるからね」というと、素直に受け入れて。
我が子が成長してきていることを感じながら見ていると、後ろから
おとうさん、おとうさん、おとうさん・・・。
と、何度も連呼する声。
何かと思い、ふり返ると、後ろに座っていた女の子が、私に向かって「おとうさん」と呼んでいる。
??と思いながら返事をすると、ニコッとしてくれる。
我が子から「おとうさん」と呼ばれるのなら、すぐにでもふり返ったのだろうが、よそのお子さんから「おとうさん」と呼ばれると、まったくピンと来ず、気づかなかった。
「蓮くんのおとうさん」と呼ばれたらすぐにふり返ったかな?
私たちは、阿弥陀如来を「ほとけさま」と呼ぶ。
でも、『阿弥陀経』に「恒河沙数諸仏」とあるように、仏にはガンジス河の砂の数ほどたくさんの仏がおられると説く。
でも、たくさんのほとけさまがいようが、私たちのほとけさまは「阿弥陀如来」。
たくさんほとけさまがいるなか、どのほとけさまと言わずとも、「ほとけさま」とのよびごえに、阿弥陀如来は応えてくれる。
今日の浄徳寺での葬式で、御住職のあいさつのなかに、親の願い、子のよびごえを聞かせていただいた。
7月2日(月)
雨も上がり、朝から広南小学校で読み聞かせ。
今日も先週に引き続き、3年生を担当。
今日、読んだ本は、『若冲のまいごの象』。
江戸時代の画家、伊藤若冲(いとうじゃくちゅう)の話。
小学校3年生、まだ若冲の存在は知らなかったようだが、いろんな人の話を聞くのは刺激になるかな。
私が若冲の絵に出会ったのは、大学に通っている頃。
京都国立博物館の特別展で、宮内庁所蔵の「動植綵絵」を見たのが最初。
自分の好きなことを極め、その才能を発揮した人の姿に、何か感じるだろうか。
若冲の生きものに そそぐ やさしい まなざしをかんじます。
つねに あたらしい かきかたを もとめて えがきつづけた若冲ですが、この絵をえがいてまもなく 85歳で この世を さりました。
1学期も早いもので、読み聞かせはあと1回。
最後は4年生。
7月1日(日)
今夜は7時より、阿賀の西光寺にて呉東組仏教壮年会連盟総会と研修会。
95名の参加者で、法中(僧侶)を含めると100名を超える。
まずは総会。
昨年度の行事報告・会計報告、今年度の行事予定・予算が審議される。
そして、引き続き研修会。
仏教壮年会連盟では、年に2回研修会が開かれている。今日はその1回目。
今日7月1日は、呉空襲の日。
それをご縁に、まずは当時の体験談。
そして、本題は『浄土真宗の味わい』。
仏教徒としての矜持(きょうじ)を聞かせていただいた。
「矜持」とは、プライド・誇り。
『無量寿経』のなかに、
世間の人民にして、父子・兄弟・夫婦・家室・中外の親属、
まさにあひ敬愛してあひ憎嫉することなかるべし。
有無あひ通じて、貪惜を得ることなく、
言色つねに和してあひ違戻することなかれ。
ということばがある。
それを、
たがいに敬い
助け合い
言葉やさしくなごやかに
と訳されて、仏教徒としての生きざまを説かれた。
9時過ぎまで、みなさん真剣にお聴聞。
日曜日の夜、ようこそのご参集でした。
6月29日(金)
一昨日は、安登の浄念寺で呉東組仏教婦人会連盟の総会。
その夜、呉東組の法中会が広の教法寺。
そして、今日は専徳寺仏教婦人会の総会。
いろいろ続いた6月の諸行事もこれで一段落。
今日は法話のなかで、絵本を一冊紹介。
『だいじょうぶ だいじょうぶ』
少し版が小さいため、絵は見せず、本文だけを読ませていただいた。
おじいちゃんは、ぼくの てを にぎり、
おまじないのように つぶやくのでした。
「だいじょうぶ だいじょうぶ」
ほとけさまの世界も「だいじょうぶ」の世界。
親鸞聖人の書かれた『教行信証(顕浄土真実教行証文類)』の真仏土巻に、『涅槃経』を引用されて、如来の異名(別名)を挙げるなか、
また大丈夫と名づく
と出てくる。
「だいじょうぶ」の世界は、理想的な世界ではあるが、私たちの住んでいる世界は「だいじょうぶ」でないことの方が多い。
原発の問題にしても、「だいじょうぶ」が大丈夫でなくなった。
それでも、お互いが「だいじょうぶ だいじょうぶ」と声をかけあえる世界にしたいものだ。
婦人会・女性会のみなさまには、いろいろとお世話になります。
6月27日(水)
曇り空のもと、10時30分より、安登の浄念寺にて呉東組仏教婦人会連盟の総会。
呉東組仏教婦人会20単位より各3名ずつが出席して、総会を開催。
専徳寺からも3名が出席。
午前中は、総会。
昼食をはさんで、午後から講演。
御講師は、大分の佐藤第二病院院長、龍谷大学大学院実践真宗学教授の田畑正久先生。
仏教も医療も、老・病・死をどう生きるかという課題に共通点があり、その医療と仏教の協力関係に尽力されている先生の話。
いまの医療の理想は不老長寿。
生きながらえることが重要となっているのが現状。
ただ、長生きすることが幸せなのだろうか?
誰もが幸せを願っている。
ただ、「死」が“不幸の完成”となってしまうと、何のために生まれ、何のために生きているのか。
朝起きてお念仏。
新しい一日を迎えたことに感謝。
そして、寝る前にお念仏。
そのとき、その日を一日ふり返り、今日一日を生き抜いたことに感謝。
一日一日が完結。
“今”に出遇うと、いのちの長短を問うことはないのだと。
「人間は考える葦である」で有名なパスカルの『パンセ』に、
幸福になる準備ばかりしているので、現に幸福になることはできなくなる。
ということばがあるそう。
死ぬまでその準備に明け暮れてしまう。
また、クリスチャンではあるが、今日紹介いただいた星野富弘氏の
いのちが 一番大切だと
思っていたころ
生きるのが 苦しかったいのちより大切なものが
あると知った日
生きているのが 嬉しかった
今を満足して生きる。
考えてみると、なかなかそれも出来ていない。
不平不満。愚痴ばかり。
それに気づかせていただくご縁であった。
今日出遇えたご縁に感謝。