呉東組聞名講 10月例会

10月11日(火)

今日は午後から阿賀宝徳寺にて呉東組聞名講の10月例会。

このたびは法話も担当。

報恩講と言うことで、法中は聞名講お揃いの衣体を着けての法要。

 

例年この報恩講で冬用衣体を着けるので、それに合わせて布袍等も冬用に替えていたけれど、今年は先週から急に冷え込んだりして、すでに布袍は冬用に。

 

今日の法話は、

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば 
 功徳は十方にみちたまふ

先日仏教壮年会でも話した「称」の話より。

「称」は御なをとなふるとなり。また称ははかりといふこころなり。(尊号真像銘文)

 

その後の御示談は、

浄土真宗は、「祈りなき宗教」と云われます。辞典には、「祈り」の意味合いを次のように示されています。
①神や仏に幸いを請い願う。
②心から望む、希望する、念ずる。

一般的には、「みなさまの健康をお祈りします」「ご多幸をお祈りします」「ますますのご発展をお祈りします」「平和を祈念する」「黙祷」などと使用されます。
私は、浄土真宗では「祈る」という間違いやすい言葉を使わないと聞いています。しかし、日常用語でもあり、安易に使われている「祈る」の意味をあなたはどのように捉えていますか?

と、役員さんからの質問用紙への回答より。

そんな中、法中より本願寺が「祈り」公認との記事が新聞の一面を飾ったことがあると。

帰って調べてみたら、『毎日新聞』2002年12月10日の記事であると分かった。

「祈り“公認”浄土真宗本願寺派」

 合格祈願や無病息災といった現世利益りやくを求めないため、「祈らない宗教」とされてきた浄土真宗本願寺派(京都市下京区、本山・西本願寺)の教学研究所が、「祈り」について「宗教の原点であり本質だ」と“公認”する見解を示していたことが9日、明らかになった。

 浄土真宗は宗祖・親鸞聖人の時代から、現世の欲望から来る祈りを「不純な動機に発する行為」と否定してきた歴史がある。門信徒数公称1000万人、末寺1万を誇る国内最大の伝統仏教教団の変化が、宗教界や他の真宗門信徒らに与える影響が注目される。

 宗派の国会にあたる定期宗会で、祈りを否定する考え方に疑問を投げ掛ける質問に対し、“内閣法制局長官”ともいえる教学研究所長の大峯あきら・大阪大名誉教授(宗教哲学)が答弁。「『祈り』とは聖なるものと人間との内面的な魂の交流であり、あらゆる宗教の核心。『祈り』の概念は現世利益を求める祈とうよりも広く、祈りなくして宗教は成り立たない」と明言した。

 浄土真宗では、阿弥陀仏への感謝の心で念仏を唱える時、浄土に往生して仏になることが決まるとされる。信心や修行など人間側の力(自力)を超越した阿弥陀仏の力他力)が教義の根幹にあるため「他力本願」の言葉が生まれ、「健康をお祈りします」といった表現でも「念じます」と言い換えるのが正しいとされてきた。

 しかし、世界規模の宗教間対話が行われる時代の流れが、変化を促した。
 他のあらゆる宗教が「祈り」を持つ中で、大峯所長は「(真宗では)祈りの概念を論理的に整理してこなかったため矛盾感が表面化してきた」と説明。「言葉の表面的な意味で『真宗は祈らない』と単純に割り切るのは教条主義だ。死への恐怖といった人間の根源的な問題に答えず、『現世利益は求めない』と言っても説得力がない」と話す。

 また、真宗大谷派(京都市下京区、本山・東本願寺)の玉光順正・教学研究所長も「人間の思いを超えた領域にある『祈り』の意味を、誰もが理解できる言葉で説明することを真宗は怠ってきたとも言える」と肯定的にとらえている。

【丹野恒一】

宗教評論家の丸山照雄さんの話
 浄土真宗は独自性を強調するために「祈り」をあえて狭義にとらえてきたとも言える。
 言葉にこだわり過ぎれば、一般の日本人に通じないばかりでなく、外国語に翻訳する際に支障が生じ、込められた精神が届かなくなる。その意味で、教学研究所が「祈り」を認めたのは大きな一歩だ。

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教学研究所 「『祈り』について」

 浄土真宗では、伝統的に「いのり」という言葉は使用してきませんでした。「いのり」という言葉は、本来神仏に対して願い求める(「祈願請求」)という意味を持ち、その意味が浄土真宗の教えに背くからです。
 浄土真宗の信心は、自らのはからいをまじえず、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせるものです。
 したがって「いのる」必要がないと言えます。もし「いのり」を認めるならば、それは自己のはたらきを認めることとなり、他力の信心を否定することになります。

 浄土真宗のみ教えには、このように祈り求めることを否定する明確な教理があり、親鸞聖人の著されたものの中には、「いのり」を積極的に使用した例を見ることはできません。
 ただ、性信坊に宛てられた消息の中に肯定的と思われる使用例もありますが、「いのり」という言葉を「おぽしめす(お思いになる)」と表現し直されるなど様々な限定の中で使用されております。
 したがって、この用例をもって宗祖が積極的に「いのり」の使用を認められたとは到底言えません。

 一方、現代の「いのり」の語を調べますと、神仏を対象として願い求めるという古典的な意味とは別に、「心から望む、希望する、念ずる」という意味が出てきます。
 したがって現代では、「いのり」という言葉の中に、神仏を対象としない意味が含まれるようになってきています。
 また、「いのり」は英語のprayの訳語として使用されていますが、この言葉は神との対話を意味しており、神に願い求めるという意味には限定されえません。

 しかしながら、絶対的な阿弥陀如来のはたらきにまかせる浄土真宗の教えの上から、決して「いのり」ということは認められるものではなく、それ故これまで「いのり」という言葉を使用してこなかったのです。
 このことを重く受けとめなければなりません。

posteios.comより。

確かに「祈り」公認の記事はあったようだけど、その後12月20日付の『本願寺新報』で否定されているそう。
確かめてよかった。
また、こうして残しておいてくださっているのがありがたい。

 

その後、安心・起行についてのお尋ねもあったり、なかなかありがたいご縁。

ようこそのお参りでした。

2022年10月11日 | カテゴリー : 呉東組 | 投稿者 : sentoku