願い

7月7日(水)

今日は七夕。

願いごとを記した短冊をあちらこちらで。

これは乞巧奠きこうでんと言う中国の風習に由来するそう。
技巧を乞う。
織り姫様にあやかって裁縫の上達などを願う儀式だったとか。

「願いが届く」
「願いが叶う」

願いが成就した時は、何とも言えない喜びがある。

 

今朝、2つの願いに望みが。

1つは、蓮の蕾が1つ。

昨年の蓮を、今年は蓮根から育て、毎日毎日声をかけながらじっとこの時を待っていた。
でも、他所の蓮が開花したと言うニュース等を見ると、ダメだったのかなぁ。。。と心配に。

それが、昨日はなかったはずなのに、朝蕾が1つ。

これは嬉しい。

 

そして、もう1つ。
ヒマラヤスギにキジバトが戻ってきて、また抱卵を。

先日から姿を見かけるようになったので、ひょっとしたらと期待していたら、今朝前回の巣に。

でも、喜ぶのも束の間。。。
昼から庭木の剪定で職人さんが機械を使っていたから、ちょっと心配。
夕方、巣を覗くとキジバトの姿が見えず、白い卵だけが。。。

求不得苦。

 

願いが叶うのには時間もかかる。
早く早くと焦らずに。

五劫思惟之摂受

阿弥陀さまは五劫と言う長い時間を。

早く早くと焦らずに。

学問とは

7月1日(木)

今日から7月。
そして、今日は呉空襲の日。
いろいろと思いを馳せながら。。。

国立国会図書館デジタルコレクションの『現代名流自伝』第1編に、前田慧雲勧学が「子の受けたる境遇と感化」と題して書かれた中に、石泉僧叡和上のことを挙げられていたので紹介。

 

石泉僧叡せきせんそうえい事蹟じせきに感ず

それから二三年の後、父から仏学のはなしを聞くについて、時々真宗の先哲せんてつはなしをしてれた事があります。其のうちついて最も感じたのが、芸州げいしゅう石泉僧叡せきせんそうえいといふ人のことで、父がそれをはなすについて、学問とふものは、この人のような学問でないと真実な学問でない。この石泉師せきせんしのは自身の心の底からして出た学問で、真の学問である。書物に書いてあるのを読んで覚えたり、口の上から聞き込んだけのものでは、学問とはへない。今日こんにちの学者はみな書物の上の事を受売うけうりしたり、師匠のふた事をり返すに過ぎないので、真実の学者でない。真実の学者は、自分で一けんしきを立てて、自分の心から出したものでなけらねばならぬ。ところこの僧叡そうえいふ人は、自分の説が当時の学者にれられず、本願寺からして糺問きゅうもんを受けたけれどもそれにもくっせず、安芸国あきのくにの一田舎の長浜といふところ隠居いんきょして、みずから学生をやしなうて、一生の間本山へはもちゐられずしておわった。その僧叡そうえいの目から見ると、本山にもちゐられてゐる学者共がくしゃどもは子供同様であって、初めから相手にしなかったくらいであると話されて、おおいに感動しました。成程なるほど、学問は書物に書いてある通りを其儘そのままふてゐるようではつまらぬ。どうしても一個の説を立てねばならぬといふかんがえおこりました。其後そののちふものは書物を見るたびに、無理矢理にでも自説をこしらへて見やうとつとめて、論語を読んだ時には『論語考』といふものを書いて、その草稿そうこう何処どこやらに有りましたが、今見るといふと可笑おかしい事ばかりではあるが、ふ事が多少の見識をつけました。

 

学問とは、そのまま受け売りするのでなく、自身の心の底から出てくるもの。

いつの時代も、先人の言葉に学ぶべきことが。

 

ちなみに、前田慧雲勧学は、専徳寺に建つ大洲順道の頌徳碑を書いてくださっている。

 

アインシュタイン記念日

6月30日(水)

現代科学に欠けているものを埋め合わせてくれる宗教があるとすれば、それは仏教です。

そう語ったのは、アインシュタイン。

今日6月30日は、1905年(明治38年)、アルベルト・アインシュタインが相対性理論に関する最初の論文「運動する物体の電気力学について」をドイツの物理雑誌『アナーレン・デル・フィジーク』に提出したことから「アインシュタイン記念日」と言うらしい。

 

アインシュタインと言えば、先日次男がこの本を読みたいと言うので取り寄せた。

トーベン・クールマンの新作、『アインシュタイン ―時をかけるネズミの大冒険-』。

リンドバーグ、アームストロング、エジソンに続く第4弾の絵本。

長男が6年生の時、6年生に読み聞かせで第1作目の『リンドバーグ』を読んだ。
その時1年生だった次男にも、家で練習を兼ねて読んだ。

このシリーズを読み聞かせで読んだのはその一度きり。
読み聞かせで読むにはあまりにも長かったので。。。

でも、それをきっかけに、新作が出るたびに揃えていった。
そして、中学に入っても、この本を読みたい、リンドバーグを読んでもらったの覚えてる、このシリーズが一番好きだと。

何がきっかけになるか分からないなぁと思いながら、今日この本を読む。

絵もリアルだけど、物語もひょっとしたらホントにネズミが?と思ってしまうくらい面白い。

 

コロナ禍で寺内の人流は相変わらず少ないけれど、いろんな珍客往来。

胡麻斑髪切(ゴマダラカミキリ)

「胡麻斑」 〈ごま まだら〉と書いて「ゴマダラ」
ゴマちゃんで知られるゴマフアザラシは「胡麻斑海豹」と書いて〈ごまふ あざらし〉と読む。
〈ごまだら〉と〈ごまふ〉、その線引はどこだろう。。。

赤手蟹 (アカテガニ)

まるで真っ赤っかのボクシンググローブを着けてるみたい。
カニは何故横に歩くのだろう。。。

 

木瓜 (ボケ)

木瓜の実が黄色く色づいた。
先日、『いのちの荘厳 仏華』(本願寺出版社)を読んでいると、ボケはトゲがあるので仏華には向かない「禁花」であると。

そこで初めて、ボケってトゲのある花だったのか。。。と。
専徳寺のボケはすべてトゲなし。
特に手水鉢の側のボケは、トゲがないので水浴びに来たメジロの止まり木。

女郎花 (おみなえし)

桜の側に植えた女郎花の背丈が急に伸びて、その先につぼみが。
どんな花が咲くかなぁ。
その隣の藤袴はバッタに葉っぱをかなり食べられたので、花をつけるかちょっと心配。

 

 

想像力は知識より大切だ。
なぜなら、知識には限界があるからだ。
  -アルベルト・アインシュタイン-

知識には限界があるけれど、ご縁に限界はない。
いろんな人やいろんなことに出会い、いろんなものに触れていくだけで、想像する力が生まれる。
もちろん、触れたくない縁もあるかも知れないけれど。。。

それもまたご縁なのかな。

蚇蠖

6月28日(月)

境内の植木鉢のふちに一本の細い枝がピンと。

??じっと見てると、何と!動き出した。

 
 
 
 
 
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尺取り虫。

シャクガと言う蛾の幼虫。

中国の曇鸞大師は『往生論註』に「蚇蠖しゃっかく ・蚕繭さんけん 」の譬えを。
《参考》浄土真宗本願寺派総合研究所

仏本ぶつもとこの荘厳しょうごん清浄しょうじょう功徳くどくおこしたまへる所以ゆえんは、三界さんがいそなはすに、これ虚偽こぎそう、これ輪転りんでんそう、これ無窮むぐうそうにして、蚇蠖しゃっかく 〈 かがまりぶるむしなり 〉の循環じゅんかんするがごとく、蚕繭さんけん 〈蚕衣さんえなり〉 の自縛じばくするがごとし。あはれなるかな衆生しゅじょう、この三界さんがいしばむすびてけず 〉られて、顛倒てんどう不浄ふじょうなり。(『往生論註』七祖註釈版57頁)

「蚇蠖」と言うのが尺取り虫。
植木鉢の縁をぐるぐるぐるぐると回っている姿がまさに循環するがごとく。

かいこは糸を出してまゆを作り、自分を閉じ込めてしまう。

そんな虫の姿を譬えて、私たちの世界は迷いの境界だとお示しくださった。

 

また、曇鸞大師は他にも有名な譬えで、

蟪蛄けいこ春秋しゅんじゅうらず」といふがごとし。この虫あに朱陽しゅようせつらんや。るものこれをいふのみ。(『往生論註』七祖註釈版98頁)

と。
『荘子』の「朝菌ちょうきん晦朔かいさくを知らず。蟪蛄けいこは春秋を知らず」を引用した譬え。
蟪蛄」とはセミのこと。「朱陽」とは夏のこと。

 

虫、鳥、花、取り巻く世界すべてがお念仏のご縁に。

 

 

 

生と死

6月22日(火)

〈死〉について、なるべく避けて通りたいと思っている方が多いのではないだろうか。

ただ、

われや先、人や先、今日ともしらず、明日ともしらず、おくれさきだつ人はもとのしづくすゑの露よりもしげしといへり。(白骨の御文章)

誰もが避けては通れない。

 

そんな〈死〉を語り合う活動が若い方を中心に行われているそう。

『本願寺新報』6月20日号の掲載記事を見て、 

死生観光トランプ

を早速注文。
 ホームページ《ワカゾー流デスカフェ》より

昨年クラウドファンディングで販売されたのを知った時にはすでに遅し。。。
でも、遅ればせながら。
本日、届いた。

ホームページより無料ダウンロードも出来るようだけど、やっぱり実物が良い。

 

世界中の《死生観》から、《死》について身近な問題として考えることができるかも。

 

また、先日取り寄せて読んでいる本がこちら。

『お葬式の言葉と風習』

 柳田國男『葬送習俗語彙』の絵解き辞典 (髙橋繁行)

 

お葬式にはよく分からず使っている言葉も多い。
また、他所の地域のこと、他所の宗派のことは知らないことだらけ。

「門徒もの知らず」

これだけ見ると、そうかも。

この辺では知らないことばかり。

 

原本の『葬送習俗語彙』は、国立国会図書館デジタルコレクションでも読むことができるけれど、この本は切り絵の白黒の挿絵が何とも。

 

そして、この本に何とも不思議なことが。

広島へタバコ買いに行った

人が死んだことを意味するユニークな隠語。亡者が広島へタバコを買いに行くのでなく、裏の意味する本命は、世界遺産の厳島神社と背後にそびえる霊山、弥山みせん。中国・四国地方では厳島神社を他界とする観念があって、こう呼ぶようになった。弥山は、特に瀬戸内海対岸の四国の人々が、死んだら魂はこの山に還ると言われている。同様の言い方で、近畿圏では熊野に、東北地方の人々は恐山に還るという。日本人は十万億土のかなたの阿弥陀浄土よりも、身近な山中他界にあの世を求めがちだ。

「広島へタバコ買いに行った」なんて言葉をこのあたりでは一度も聞いたことがない。

 

海の上に建つ厳島神社は、平清盛がお浄土を表した建物と言うのはよく聞く話ではあるけれど。

 

「終活」

自らのお葬式のこと、お墓のことを準備することを言うのではなく、〈死〉と向き合うことで、最後までどう自分らしい人生を送るかという準備。

〈死〉を通して〈生〉を。

 

緊急事態宣言が解除され、今日は午後から久しぶりに広島別院でサンガ部会。

何だか浦島太郎。。。

 

 

 

 

 

 

 

背私向公

6月8日(火)

今日はお参り先でお仏壇の上に掛かっていた順道の書を撮らせていただいた。

専徳寺第17世住職 順道の書は、寺には残ってなく、ご門徒さんのお仏間で時々見かける。

背私向公

背私向公はいしこうこう」とは、親鸞聖人が倭国の教主と崇められた聖徳太子の『憲法十七条』のことば。

十五曰、背私向公、是臣之道矣。凡人有私必有恨。有憾必非同、非同則以私妨公。憾起則違制害法。故初章云、上下和諧、其亦是情歟。

十五にいはく、わたくしそむきておおやけくは、これやつこらまの道なり。すべて人わたくしあるときはかならずうらみあり、うらみあるときはかならずととのほらず、ととのほらざるときはすなはちわたくしをもつてもおおやけさまたぐ。うらおこるときは、すなはちことわりたがのりやぶる。それ初めのくだりにいはく、上下かみしもあまなととのほれといへるは、それまたこのこころなるかな。(註釈版聖典より)

私情を交えると、そこには当然好き嫌いが生まれ、公平な仕事、まつりごとは出来ない。いつの時代も。

今年は聖徳太子1400回忌。

 

 

 

鳩瓦

4月30日(金)

今日は広南中学校、今年度初めての参観日、その前にPTA総会。
1年生、入学式の凜々しい制服姿が約1ヶ月経ってさまになってきた。

参観日は理科の時間。
花の観察。
今年度から導入された生徒一人につき各一台のiPadを使って、写真を撮ったり、ルーペで見たり。

法務のため、さわりをちょっとだけ参観。

 

一昨日から昨日の雨で、境内のヒマラヤスギの住民たちは大丈夫かなと心配だったけど、今朝高層階に住んでるカワラヒワの元気そうな声が聞こえてきた。
低層階に住んでるキジバトは、雨の中でもじっと卵を温め、今日もじっと。

もう2週間ほどになるので、そろそろ孵るかな?

 
 
 
 
 
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そういえば、専徳寺の山門には鳩瓦。

鳩瓦の由来を調べてみたら、

はと三枝さんしれいあり からす反哺はんぽこうあり

という諺があるそう。

ハトは育ててくれた親の恩に報いるために三本下の枝に止まり、カラスは育ててくれた親の恩に報いるために老いた親鳥に口移しで食べさせる。
親孝行の意味があるのだそう。

他にも、キジバトは夕方から朝までメス、朝から夕方までオスが卵を抱いて温める。
そんなところから夫婦和合という意味もあるとか。

ちなみにハトが「平和の象徴」と言うのは、旧約聖書のノアの箱舟に由来。

 「平和の象徴」というと、ハトよりもおりづるをイメージするかな。

 

明日からいよいよ5月。

ペットロス

4月27日(火)

先日、電話で「16年いっしょに過ごしてきたチワワが先月亡くなり、すぐに火葬したけれど、昨年弟を亡くした時よりも悲しみが大きく、1ヶ月経っても辛いので、お寺に参ってお経さんいただいてもよろしいですか?」とお尋ねになられたので、どうぞお参りくださいと今日お参りに。

ペットロス症候群

私がこのペットロスに感心を持ったのが1990年代。
本願寺の宗学院に通っていた頃。
石泉僧叡和上のご縁で、江戸宗学を学んでいた。

江戸時代、本願寺派では三業惑乱という大きな論争が起こった。
その頃、「小児往生」という問題も100年ほど議論された。
その小児往生のことを調べていたときに、大谷派の慧琳著『真宗帯佩記』の「小児往生」に続いて、「畜類葬送之事」と題した一節を読んだ。

ちょうどその頃、アニマルセラピー(アニマルアシステッドセラピー)に興味を持っていろいろ調べていたところ、ペットロスについてテレビのドキュメンタリーが放送されたこともあり、そちらも感心を持って、手当たり次第に本を読んでいくうち、キリスト教文化圏の海外ではペットロスについては宗教が介入することなく、獣医師がケアするケースが多いけれど、日本の生命観は違うので、宗教者にそれを求めたいとの趣旨を目にし、それでペットロスをテーマに論文を。

ペットを六道、三悪道の中の畜生と見るのか、それとも衆生(有情)と見るのか。
はたまた、ペット(愛玩動物)でなく、コンパニオンアニマル(伴侶)。家族の一員とみなしている場合も多いので、それによっても答えは違ってくるし、好きか嫌いかによっても答えが違ってくる。

その答えが違うというところが、この問題を複雑にしてしまう。

ただ、私がお聞かせいただいているのは、阿弥陀さまは十方の衆生をもらさず救うと願いを建ててくださったこと。

 

妙好人 因幡の源左同行は、いくらお聞かせいただいてもさっぱり分からなかったみ教えが、牛の背に草を負わせているときに、

ふいつと分らしてもらったいな。でんや、われが負ふてごせつだけ、これがお他力だわいやあ。あゝ、お親さんの御縁はこゝかいなあ、おらあその時にや、うれしいてやあ。
         (『妙好人 因幡の源左』(柳 宗悦・衣笠一省編)

と、牛をご縁にご信心をいただかれた。

何がご縁となるか分からない。
チワワをご縁に今日お念仏に出遇われたのなら、きっとまたお浄土で。

 

4月22日はアースデイ

4月22日(木)

今日4月22日はアースデイ(Earth Day)。
地球環境について考える日だそう。

地球温暖化、気候変動、ここ数年の災害。。。

今、広南中学校ではSDGs(持続可能な開発目標)に取り組み、全校生徒の胸にはSDGsバッジ。
1年生の次男も一昨日制服の胸にバッジを付けて帰ってきた。

意識する、考える、バッジを胸につけることで生まれてくるのかも。
ちなみに私も輪袈裟にSDGsバッジ(2代目)。

 

庭に水を撒き、花の世話をしたりする中で、ついつい良いもの悪いものを選んでしまう。
例えば雑草とか虫とか。

昨年までなかったのに、今年になってあちらこちらに咲き出したこの花。

何だかかわいらしく、きれいな花だからそのまんま。

それに対して、名も知らぬ雑草は引っこ抜く。

また、今日蓮の鉢に水を足したら、底の方から何だか得体の知れない奇妙な虫のようなものが蠢いて。
なんだ?これはどうしたものか。。。
と、「水中、長い、幼虫」と検索したら、すぐにハナアブの幼虫だと分かる。
害はないそうだが、見た目で気味悪がられることが多いのだと。
なるほど。。。

いずれにしても、良いもの悪いものは〈私〉の都合。
 

一昨日、調べごとをしていて、禅宗にこんな言葉があるのを見つけた。

春色無高下 花枝自短長
(しゅんしょく こうげなく、かし おのずからたんちょう)

江戸時代中期の臨済宗の僧、白隠慧鶴はくいんえかくの『槐安国語かいあんこくご』より。

春の陽気は高いも低いも関係なく、一様に降りそそがれているけれど、花の枝はもとより短いのもあれば長いのもある。この世のものは何もかもすべてが平等というのではなく、違いがあることを受け容れる、これが肝要。

禅における平等の思想を表すことばだそう。

違いがあることを受け容れる。

若冲の動植綵絵どうしょくさいえ
釈迦三尊像3幅とともに30幅の動植物が描かれ、相国寺に奉納された作品。

お釈迦さまのまわりに鳳凰や魚貝、さまざまな爬虫類や虫までが描かれている。
姿・形が違っても、みんないっしょ。

そういうことなんだなぁと、ちょっと地球環境を考える。

 

 

お釈迦さまの誕生日

4月8日(木)

今日は4月8日、お釈迦さまの誕生日。

とはいえ、専徳寺では特に灌仏会・花まつりをしていない。
昔、日曜学校があった頃、白い象を曳いて花まつりをお祝いしていたのを覚えている。

昔の花まつりの記念写真が見つかった。
私の生まれるずっと前の若かりし父(前住職)や祖母(前々坊守)の姿が写ってる。
そして、後ろに写ったヒマラヤスギの低いこと。

 

その頃にはなかった親鸞聖人像のその前で、

以前、”フェリシモおてらぶ”さんで購入したスノードーム誕生仏。

このたび新しくピンクの誕生仏も発売されたので。

そして、初転法輪スノードームも。

コロナ禍で、賑々しくは出来ないけれど、せめて。

 

いつもなら4月8日に予定されている仏教壮年会総会も延期。

その代わり、会長さんが広郷土史研究会の会報第86号(平成20年7月1日)に掲載されていた『長浜で息づく地域共同体 =石泉和上と石泉文庫=』(日本マスコミュニケーション学会員 荒本昱夫氏)を壮年会会員のみなさんにぜひ読んでいただきたいと回覧されたのだそう。

どうやら、私がその前の同研究会の例会で石泉僧叡和上と石泉文庫のことを話したことから、それをもとに長浜に息づく大切なことを会報に。

天上天下唯我独尊

ひとり存在しているのではなく、つながりあった尊いいのちをそれぞれに。