3月28日(月)
昨日に引き続いて、朝席・昼席・夜席と春季彼岸会。
浄土の救いは到達ではなく、浄土への方向の発見である。(藤場俊基)
住職を退任されるまで、掲示伝道をされていたそうで、その中からのことばより。
七高僧のお一人、龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』
一毛をもつて百分となし、一分の毛をもつて大海の水の二三渧のごときを分かち取るがごとし。苦のすでに滅するは大海の水のごとし。余のいまだ滅せざるものは二三渧のごときなれば、心大いに歓喜す。
と、通常読むところを、親鸞聖人は『教行信証』の中に、
一毛をもつて百分となして、一分の毛をもつて大海の水を分ち取るがごときは、二三渧の苦すでに滅せんがごとし。大海の水は余のいまだ滅せざるもののごとし。二三渧のごとき心、大きに歓喜せん。
と、読み改められた。
普通なら、あと2、3歩で頂上に到達だと喜ぶのを、親鸞聖人は山の麓を2、3歩歩み出したところを喜ばれているとのお話。
子どもがよく先を急いで走り出し、よその人について違う方向に向かう姿を思い出した。
いつも決まって、後ろから、「そっちじゃない!こっちよ!」と。
進むべき方向が定まる。
彼岸(浄土)からのお喚び声に導かれ。。。
ようこそのお参りでした。