広島別院報恩講

12月14日(金)

今日は午前中、東小坪地区の通り報恩講。

これで、地区ごとでまわる通り報恩講は一区切り。
あとは、少し残ったところを。

午後から広島別院の報恩講へ。

このたび、専如御門主が、各地別院の報恩講をお参りになられるその最初が安芸教区。

ということで、別院の末席にてそのご縁に。

呉東組から、称名寺・住蓮寺御住職が結衆として、また、広島雅楽会より若さんたちが法要を彩る。

正信偈第二種の法要をおつとめし、そのあと、御門主さまよりご親教。

ただいまは、皆さまとともに、本願寺広島別院報恩講をおつとめさせていただきました。門主として初めて広島別院での報恩講法要を多くのご参拝の皆さまとともにおつとめ出来ましたことを嬉しく思います。今後もこのようなご縁を多くいただければありがたいと願っております。
まず、本年7月の平成30年7月豪雨において、お亡くなりになられた方に謹んで哀悼の意を表しますとともに、被災された皆さまに、心よりお見舞い申し上げます。10月に被災されたお寺などへお伺いさせていただきましたが、被害の様子や現状をお聞きして、被災地の皆さまの生活の上には、いまだに災害が終わっていないこと、そして、終わりが見えないことを改めて感じました。大きな悲しみや苦しみを抱え、困難な状況の中で本日ご参拝くださった方もおありだと思います。報恩講に際し、皆さまとともに親鸞聖人のご恩を偲び、親鸞聖人が説かれた浄土真宗のみ教えを改めて深く味あわせていただきたいと思います。
仏教は今から約2500年前にインドでお釈迦さまによって説かれました。お釈迦さまはこの世界における不滅の真理をさとられました。不滅の真理ですから、それは時代や場所を問わず、いつでもどこでも、また、誰にでも当てはまる真理です。それを「四諦(したい)」、四つの聖なる真理として説かれ、その第一に「苦諦(くたい)」という私たちの現実世界の苦しみに満ちているという真理が説かれます。「四苦八苦」という言葉をお聞きになったことがあると思いますが、私たちの人生における苦しみを具体的に示したのが「四苦八苦」です。「四苦」、四つの苦しみとは、生・老・病・死。すなわち、生まれること、老いること、病むこと、死ぬことの四つです。これらは、どれ一つとっても自分の思いどおりにならないことであり、この思いどおりにならないということが、仏教でいう苦しみの意味です。古来より人間はこの生老病死から逃れようと、様々なことを試みてきました。不老不死の薬を探し求めたり、今日ではアンチエイジングということがいわれています。しかし、諸行無常のことわりに示されますように、どのようなことをしても私たちは生まれてきた以上、死ななければなりません。そして、その死は老いたものから順番に訪れるわけではありません。現代のように科学技術が発達しても、私がどのような理由でいつ死ぬのかということを予測することは不可能です。病気のリスクを量ることが出来ても、不慮の事件や事故を避けることは出来ません。しかし、私たちはこの真実を直視することなく日々の生活を送っているのではないでしょうか。それは、自分だけは変わることなくいつまでも生きていきたいという欲望、すなわち自己中心性というものが、私たちの心の本質だからです。親鸞聖人はこのような私たちを放っておくことができないとはたらいてくださる阿弥陀さまのおはたらきに出遇われました。まぎれもなく、現代の私たちも、また将来の世代の人たちも自己中心性を持った凡夫であり、阿弥陀さまのおはたらきの中でこそ、このいのちを大切に生きぬくことができます。これからもみ教えを聞かせていただき、今日いのちがあることの不思議に思いをいたし、日々を大切に過ごしてまいりましょう。本日はようこそご参拝くださいました。(文責 専徳寺住職)

ご親教のあと、御講師 花岡静人師の御法話。

お内陣には屏風が立てられ、ご門主さまはそちらでお聴聞。

ご門主さまのご教示を受けたような、「あなたにとって一番大事なものは?」とのお話。

時には末席で聞かせていただくと、いろいろ見えてくるかも。

 

2018年12月14日 | カテゴリー : 行事 | 投稿者 : sentoku