11月8日(木)
一昨日、広の浄円寺の報恩講に出勤させていただいた。
本来なら今年は導師を勤めるところ、喉の調子が悪く、声が出ないため、導師は代わっていただく。
昨日はもっと喉の調子が悪くなり、話す声もやっとな状況で、お葬式にお通夜、電話のセールスの応対等等、・・・。
今日も午前中、報恩講参りとお葬式。
出ない声をお腹から振り絞って出すために、少々筋肉痛・・・。
そんなこんなで、今夜の仏教壮年会のおつとめの導師は代わってもらい、話だけをさせていただく。
今日のテーマは、“葬儀”。
来週、9月から延期となっていた弘願寺仏教壮年会との交流会で、“葬儀”に関して話し合いをもつことに。
そんなこともあって、浄土真宗の葬儀について。
その話の中で紹介したのが、『おじいちゃんがおばけになったわけ』。
デンマークの作家の絵本だが、どちらかと言うと読んでる大人がほろりと来る物語。
亡くなっておばけとなった“じいじ”と孫のエリックの忘れ物探し。
洋の東西を問わず、こうした幽霊となる話は共通しているらしい。
そして、見つかった“じいじ”の忘れ物とは・・・。
この本を読んでみて、葬儀の意義をうかがう。
浄土真宗の葬儀は、亡くなった方への追善回向とか、ご冥福を祈る場ではない。
ともに生きた家族、友人、知人が、お育ていただいた仏前に集い、故人とのいろんなことを偲びながら、感謝をする場。
以前、新聞のコラムか何かで、現代は遺族が悲しむ葬儀でなくなって来ていると指摘しているのを読んだことがある。
昔は近所の方が手伝っていろんな手配をし、遺族の方は故人との別れの時を過ごすことに集中できた。
でも、今はあれやこれやと遺族が仕切らなければならない。
そして、不慣れなあいさつ。
そんなことに追われて、葬儀で悲しむ時を失ってきているのだと。
今は家族葬をはじめ、だんだんと葬儀の形も変わってきている。
そんな現状も踏まえながら、来週は交流会。