我聞会 3月例会

3月26日(火)

法座の朝席が終わり、ホッと一息・・・。

とはいかない。

法事が2件と葬式が2件。
さすがに喉がかすれてきた。

今夜は阿賀の称名寺にて我聞会の3月例会。

輪読の担当者が風邪で欠席。
今、風邪が流行っているようで、昨日の小学校の送別式もみんなマスク着用だった。

 

というわけで、輪読は次回に持ち越し、法話のみ。

今日紹介していただいた法話は、ラジオの本願寺の時間で2004年11月第4週に放送された酒井淳昭布教使の『安心ある世界 

浄土真宗のお寺の御住職で長く小学校の先生をされた東井義雄先生が「昔のお母さんは、風呂敷包みであったが、最近のお母さんはトランク」だとおっしゃった。風呂敷というのは、丸いスイカであろうが、細長い一升瓶であろうが、どんな形でも包めます。しかし、トランクは同じ容積でもその形に合わないと物を入れることは出来ません。ですから、入れようと思うと、その形に物を合わせなければならないのです。・・・

自分はトランクになっていないか?と、それぞれに確認するご縁をいただいた。

 

2013年3月26日 | カテゴリー : 呉東組 | 投稿者 : sentoku

春季彼岸会 3日目

3月26日(火)

今日の朝席で春季彼岸会も御満座。

今日は『歎異抄』の踊躍歓喜のこころが起きないという唯円房の問いの話。

そのなかで、「死に方」についてのお話を聞かせていただいた。

 

今はあんまりこんな表現を用いないかも知れないが、「畳の上で死にたい」ということばをよく聞いた。
それから、「あんな人、ろくな死に方をしない!」ということばも。

「死に方」というのがよく問われるが、浄土真宗では死に方は問わない。
臨終が大切なのではなく、今(平生)。

仙厓和尚の辞世のことばは「死にとうない」であったと。

『歎異抄』に、

なごりをしく おもへども、娑婆の縁尽きて、ちからなくしてをはるときに、かの土へはまゐるべきなり。

この“いのち”が愛おしいと思う気持ちがあるから、「名残惜しく」いそぎ浄土に参りたいという気持ちが湧いてこない。

 

ただ、浄土があるからこそ、いつ、どこで、どんなかたちで“いのち”尽きたとしても、この“いのち”を生き抜くことができるのではなかろうか。

彼岸とは遠い彼方ではなく、今を生きて向かっている方向に。
生きているいのちを大切に。

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ようこそのお参りでした。

2013年3月26日 | カテゴリー : 法座 | 投稿者 : sentoku